奇跡とは、驚くべき力で病気が治癒されることではない。治る見込みなどなく誰からも見捨てられた病人の傍らに、それでもイエスが自身も心身を痛めながら一晩ともに居続けたことだ。遠藤周作からこう学んだ。
この小説、数百の各頁の土壌にも、救われない者からけっして離れないキリストが横たわり続けていた。
尊敬するある新約聖書学者の口から「遠藤周作の書くお伽話のようなイエス」という評価を聞いたことがある。けれども、そうではない。遠藤周作は福音書記者と同じく、自分の生涯を通してご自身の在ることを示した神を、イエスの物語に描いているのである。その姿に、何もしてくれないように思えるが、どんな時でも見捨てず、ともに苦しみ、いや、自分に先立って自分以上に苦しみ、永遠にともにいてくれる神を見る時、人はイエスをキリストと呼ぶのだろう。
神はどんなことがあっても、わたしたちをお見捨てにならない。わたしたちが、神さまを利用しても、信じてもいないのに信じているふりをしても、大罪と呼ばれることをなしても、けっしてお見捨てにならない。むしろ、そのような者とこそ、ともにいてくださる。
侍の願いも誠実さも忠信も自分を曲げたことも、何一つ叶わず、何一つ報いられなかった。死のほかは、何も。その侍の背中に、さきに信仰を得た使用人が声をふりしぼる。
「ここからは・・・・・・あの方がお供なされます」
「ここからは・・・・・・あの方が、お仕えなされます」
侍は、立ち止まり、振り返り、はじめて、この言葉に大きくうなずいてみせた。
思い返せば、今の自分と変わらぬほどに、みじめに痩せかけたあの男は、侍が滞在したメキシコやスペインやローマの修道院の各部屋でも一緒にいてくれたのだ。
「主は汝と共に、汝の霊と共に、あれよかし」。航海中の死者を送る際の宣教師べラスコの祈り。
侍の地上の生涯においても、そして、それ以降も、神は同伴者である。