「シェイクスピアの人間学」(小田島雄志、2007年、新日本出版社)
井上ひさしさんの大ファンのぼくは、「井上ひさしの劇ことば」というタイトルの書物にも、とうぜん、興味を魅かれました。これが、小田島雄志さんとのファースト・コンタクトです。そして、その本を読めば、これまた、とうぜん、小田島雄志さんや、小田島さんが研究したり翻訳したりしているシェイクスピアも読みたいと思い、その手始めに、この本を読んでみることにしました。
小田島さんによると、シェイクスピアは、キリスト教神学に囚われないで、人間を見たひとりでした。人間の在るべき姿、理想像ではなく、泣いたり、笑ったりする、じっさいの人間を描いたのです。
とくに、悩んだり、決断したり、憎んだり、愛したり、しかも、それが同時に起こったりする、人間の不明瞭な混沌とした、矛盾した姿を描いているところに、現代にも通じる普遍性があると言います。マイナス部分を切り捨てるのではなく、それも含めての、人間味ある姿にリアリズムがあると言うのです。
また、人間はこういう理由があればこうするというようなものでもなく、もっといい加減なものとして、シェイクスピアは見ているとも言います。小さな理由でとんでもないことをしでかす人もいれば、十分理由があっても何もしない人もいると。こういうところは、事件があれば、すぐその動機を求める現代社会、とくに報道へのアンチテーゼとなるでしょう。
さらに、人間は、運命に翻弄されるのではなく、自我として自分で努力する、あるいは、その二面を生きている、とシェイクスピアは見ていると言います。
井上ひさしさんが演劇で表現している人間も、シェイクスピアのそれを踏襲していると思います。けれども、井上さんは、それにもう一滴を加えたのだと思いました。それは、観客へのメッセージであり、促しであり、誘いであり、鼓舞です。しかし、それは、あくまで、最後の一滴、その外側は、シェイクスピアに学んだ人間観や、言葉、どんでん返しの連続のストーリーなどの演劇趣向でしっかりと埋められています。
小田島さんご自身のことでは、イギリスの大学の権威者の言っていることではなく、自分の人生経験、感性でシェークスピアを解釈しようとするようになったのは、東大闘争の遺産だと述べておられます。
また、共産主義者宣言をしたキリスト教牧師、赤岩栄さんを何度か訪ねたこともあるけれども、クリスチャンにもコミュニストにもなれなかったが、「この世に平和をきたらせたまえ、というのとは違うんだな。この世に平和をもたらすよう努力する私に力を貸したまえ、というのが私の祈りだ」という赤岩さんの言葉は忘れられないともありました。
ぼくはと言えば、「どんな長い夜もいつかはきっと明けるのだ」という大好きな言葉のひとつが、マクベスの登場人物の口から出たものだ、ということをはじめて知りました。