230 「暮らしや旅のいたるところ、そして闇に、神のシンボルが」

「神さまの話」(リルケ、谷友幸訳、1953年、新潮文庫

 子どもたちは、神さまはどこにいるのか、どんな顔をしているのか、どんな言葉を話すのかと、しきりに尋ねます。

無限に青い天の半球は、神ではありませんが、神を想起させます。この本の芸術家たちは、指貫や民の歌、弦の音の緩急、そして、石の中にさえ、神を見出します。

 ここには13の短い物語が収められています。「石に耳を傾けるひとについて」には、ミケランジェロが登場します。この彫刻家は、一塊の岩石の中から、息絶えたイエスを抱くマリアの手のわななきを取り出します。そのミケランジェロに神は問います。では、「おまえのなかに、だれがいるのじゃ」。「神さま、あなたです」(p.109)とかすかな声で答えます。

 幼馴染と再会した婦人は感慨深く語ります。彼女は神のことをすっかり忘れていたけれども、ある時期から、「生れてはじめて、物を見たり、聞いたり、感じたり、悟ったり・・・感謝することを学び」「改めてまた、神について考えるようになったのです。すると、いたるところに、神の痕跡が、ございました。どの絵に接しましても、神の微笑のなごりが、認められましたし、鐘の音は、いまだに生き生きと、神の声を、伝えていました。彫刻を見ましても、神の手の型が、ありありと、見てとれました」(p.189)。

 生きることは、生きている世界の奥中に、神を見つけ出すことかもしれません。ならば、死は何なのでしょうか。「死人とは、おそらく生について沈思熟考するために、身を退いてしまったひとたちだと、思います」(p.74)。死は、生と断絶されていなかったのです。死人が静かに黙して思い巡らしている生の中庭には、愛する人びと、そして、神が座していることでしょう。

 けれども、この13編全編に神がすんなりと見つかるわけでもありません。「話のなかに神さまがおられるかどうかは、その話がすっかり終わってからでないと、はっきりとわからない」「物語の結びのあとにつづく、ひとしきりの沈黙だけが、欠けているような場合でさえも、神さまの出てくる望みは、まだまだあるわけですからな」(p.70)。

 いたるところに神の痕跡があると言っても、13編の物語のどこが「神さまの話」なのか、かならずしも明確なわけではありません。語り手は、最後の話は「闇」に聞かせています。13編のどこそこに神がいると正解を出すことよりも、闇に語られたものを闇で聴くことの方が、ずっと大切なのかもしれません。

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