「赤毛のアン」(モンゴメリ、村岡花子訳、2008年、新潮文庫)
NHKの朝ドラ「花子とアン」に誘われて、五十半ばのおじさんですが、読んでみました。
アンが歩いたり、走ったり、スキップしたりする道筋については、読者をわくわくさせながらも、けっして裏切らない展開であることが、人気の一因なのかも知れません。しっかり続きを読みたくなりました。アン、そして、そのパートナーの人生の物語、それは、きっと魅力あふれるものでしょう。
ところで、アンと言えば、ゆたかな想像力ということになるのですが、これは、ただ未来を具体的に思い描くこととは少し違うようです。
「曲がり角をまがったさきになにがあるのかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものに違いないと思うの・・・どんな景色がひろがっているのか・・・それはわからないの」(p.516)。
「よいものに違いない」。これは想像力というより、確信かも知れません。「神は天にあり、世はすべてよし」(p.524)。これはとりあえずは、ブラウニングの言葉です。アンはこれを信じているのです。
アンの想像力は、レイチェル・カーソンの言う「センス・オブ・ワンダー」、つまり、生物、山、川、海などの現象の奥底に不思議な力を覚える感性に近いのではないでしょうか。あるいは、アンは、プリンス・エドワード島の森や花や海岸の美しさの向う側に神を感じていたのかもしれません。
神と言えば、この小説にはキリスト教に関わることがらも、いくつか出て来ます。さきほどのブラウニングの言葉も、旧約聖書・創世記の「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と響き合っているように思えます。
アンは、悲しそうな顔をしたイエスの絵を見て、「ほんとうはあんなに悲しそうなようすはしていないと思うの」(p.99)と鋭い指摘をします。「お祈りを唱えるのと、お祈りをすることは同じじゃないわ」(p.133)、「お説教もまた、おそろしく長ったらしかったわ・・・牧師さんだって、ちっともおもしろうそうじゃなかったわ。牧師さんってものは想像力が足りないんじゃないかと思うの」(p.143)、「牧師さんてたいてい胃弱なんですってね」(p.301)。これらの言葉も本質を衝いています。
「あたしも大きくなったら牧師さんの奥さんになりたいと思うわ。牧師さんだったら、あたしが赤い髪をしていても気にしないでしょうからね」(p.314)。カナダには、この言葉を胸に秘め、神学校の門をくぐった男子が何人いたことでしょうか。
けれども、アンはこうも言います。「もしあたしが男だったら、牧師さんになりたいわ・・・すばらしいお説教をして、聞いている人たちを感激させるなんて、たまらなくいい気持にちがいないわ。どうして女の人は牧師さんになれないのかしらね・・・女の人だってりっぱな牧師さんになれるでしょうにね」(p.430)。たしかに、アンは人を魅了する話ができると思います。しかも、自分語りではなく、自分が自然やまわりから驚きをもって感じた、秘められた神について、ゆたかに語れることでしょう。