「精神障害と教会 教会が教会であるために」(向谷地生良、いのちのことば社、2015年)
北海道浦河町に、「べてるの家」と呼ばれる、精神障害者などの当事者の活動拠点があります。この家については、ジャーナリストなどが単行本などで紹介し、「一般書」として広く読まれているようですが、この本は、「べてる」が拠点とする教会のメンバーであり、ソーシャルワーカーの向谷地さんによって、「精神障害」だけでなく「キリスト教」や「教会」をもテーマに組み込みながら書かれたものです。雑誌連載を編集したもので、一単元が2〜4頁にまとめられていて、とても読みやすいです。
ぼくらは、なぜ、精神障害の本をときおり読むのでしょうか。それは、自分の精神、そして、他者の精神とのつきあい方に苦労をしてきたからであり、同時に、うまくつきあえた時の喜びを垣間見たことがあるからではないでしょうか。
向谷地さんも「大切な人とは、私たちがもっとも受け入れにくいかたちで出会いが用意される」(p.15)と述べておられます。「精神」は、受け入れにくいかたちを取ることがあるのですが、ゆたかな「出会い」もまた期待できるのです。「神さまは不思議と、私たちと仲間との出会いを『愛しやすい』かたちで用意されません。ですから、愛するとは、もっとも愛しにくい人と、愛しにくい状態で出会うことなのだ・・・」(p.58)というくだりを読みますと、人間関係、すなわち、精神とのつきあい方で悩んできた読者は慰められることでしょう。
精神とのつきあい方で苦しんで、教会に来る人びとがいます。ところが、教会には「信仰が浅いから精神病になる」とか「信仰によって精神病が克服できるはずだ」などと恐ろしいことを言う人がときどきいます。向谷地さんも信仰がこころの病の回復に影響を与えると言います。しかし、それは、その人の信念、精神力の強さの話ではなく、「自己肯定感」と「希望」(p.25)のことなのです。
「神を強く信じる」ということではなく、神から愛されていることをなんとなくじわっと感じる、神はあなたを愛しているという言葉に触れ、そう信じられなくても、この言葉に憧れを感じる、そういうなかで、自分を少しは肯定できるようになるということではないでしょうか。「実のところ、『自分を愛せない』という感覚は、神さまを見失わないための大切な信仰の一部だと私は考えています。そして、もっとも大切なのは、神さまは『自分が愛せない』という私たちをいつも、変わらずに愛してくださる存在だということです」(p.85)。
反省させられた点もあります。ぼくの中には人の話には耳を傾けようという意識があり、そのモードのときは、けっこうじっくり聴く方だと自認しているのですが、そのわりには、「あの人は話をよく聴いてくれる」と思われていないような気がします。「『もし、その人の立場だったら』の姿勢が書けた形式的な傾聴の態度は、支援者のもっている人間としての味わいや生活感までも削ぎ落とし、当事者の側からすると『同じ人間としての実感が伝わってこない』『まるで『壁』と話しているような感覚に陥らせるということになります』(p.70)。遮らずじっと聴きはするのですが、そのことに気を取られて、聴く「機械」になってしまっていて、相手に「ああ、聴いてもらった」という感覚をもたらしていないのかもしれません。その人の気持ちで聴いていないのかもしれません。
「ここで大切なのは、起きている『出来事』を批判し、『人』を批判しないことです。『人が問題なのではない。問題が『問題』なのだ』という姿勢が大切になってきます」(p.82)。たしかに、「あなたが言ったことは」「おまえがしたことは」と非難してしまいますね。出来事の何が問題なのかを伝えられたら良いと思うのですが、「あなた」「おまえ」と口にせず、事柄だけを述べたつもりでも、どうしても、相手を責めることになってしまいがちです。
役立ちそうな「ノウハウ」も見つけました。「ポイントは、人間不信が強いのは身体であって、″あなた自身ではない″と分けて考えることです」(p.149)。応用ができますね。「怖がっているのは身体であって」「心配しているのは身体であって″あなた自身ではない″」。
そして、「べてる」と言えば「それで順調!」です。「べてるでは、どんなにつらい出来事でも『それで順調!』と言い放つことによって、何も問題が解決していないのに『解消される』という体験を重ねてきました」(p.155)。これは、聖書に頻出する「神がともにおられる」をべテル語訳したようにも思いました。仕事がうまく行かず、家族の生活も心配であっても、「それで順調!」「神がともにおられる」で、問題解決ならぬ問題解消をはかりましょう。もちろん、解決できることは解決した方がよいですし、はんたいに、解消できずに悩み続けることもありますが。