敗戦後、キリスト教に出会い、神父になった著者が、日々の経験や世の中の出来事から聖書のメッセージをしんみりと語った講話集。カトリック信者でいらっしゃるピアノと声楽の先生からクリスマスプレゼントにいただきました。
「司祭として、キリストについて単に説明するだけではなく、キリストのみ心について語れること」(p.165)。ああ、ぼくもこのように心掛けようと思いました。
「むなしさを感じること」。むなしさは心をさいなむし、やりきれないことがあるが、これは神さまが人間だけに与えてくださった特権であり、むなしさの正反対である神さまからの招きでもある、と小林神父は語ります。
人間には心の中に、神さまの声に共鳴する箱を持っている。これが、人間が神の似姿である。とてもわかりやすいたとえです。
善きサマリア人は、傷ついた旅人を助けた後、二度と彼に会うことはなかった。つまり、褒められたり、お礼を言われたり、見返りを受けたりするのではなく、無私の行為だった。ああ、そうですね。
ペルソナ(人格)。「ペル」は「越えて」。「ソナ」は「音」。つまり、人格とは、個を越えて音を響き合わせる存在のこと。ああ、なるほど。
あと一歩で頂上に届くかもしれない場合も、自分の限界を超えていれば、「やめよう、これ以上は」。「信仰とは、神様以外のすべては大したことではないと気づくこと。もし、あの山の頂上を極め、雄大な景観に感動したとしても、それもまた、ちっちゃなことだったのだ」(p.81)。自分を危険から守るためだけでなく、神さまの壮大さの前で自分のわざを見直しているところがすばらしい。
「神父様、母さんも信者になるよ」(p.162)。
小林神父が、キリストを説明したのではなく、キリストのこころを語ったからこそ、母さんも、キリストに触れることができたのでしょう。