210 「イエスへの服従に自分を縛りつける人は、他者を解き放つ」

 「異質な言葉の世界 洗礼を受けた人にとっての説教」(W. H. ウィリモン著、上田好春訳、2014年、日本キリスト教団出版局)

 洗礼には、世の中の支配的な価値観に対抗するイエス・キリストの共同体に加入する決断が求められると著者は考え、幼児洗礼を神から一方的に無差別に与えられる恵みとする論は最悪であると述べています。

 けれども、人をも神をも畏れない帝国への対抗文化として聖書の神にしたがう者にとっては、すべての人は皆神の救いの中にあると信じることが当然ではないでしょうか。

 本書は諸刃の剣だと思います。わたしたちを苦しめる者たちとは正反対の考え方がキリスト教共同体にあることを示しながら、どうじに、やはりキリスト教が正しいのであって、他は間違っていると述べているように読みました。

 教会は「対抗文化的な共同体」(p.31)、「預言者のテキストでは、悲しみは、現体制への抵抗の動きの始まり」(p.32)、「教会は国家が押しつけてくるような責任の体系に黙って従うことを拒否している」(p.177)、「説教の一つひとつが潜在的には社会を転覆させ、社会的現実を構成しなおし、愛に満ちた反文化的な共同体を建設する可能性」(p.196)。

 たしかに、キリスト教会は、個人の既得権益の保護のためのクラブであってはならず、強者、権力者、金持ちらが抱く私利私欲、振る舞う不正義に対抗しなくてはなりません。

 しかし、著者はこうも言います。「教会なしで世界が真の救いを知ることができるでしょうか」(p.190)、「わたしたちはイラクの人々に信仰へのチャンスを与えられませんでした」(p.168)、「パウロは、アレオパゴスにおいてギリシア語で説教をしたとき・・・イースターという大勝利の後の【掃討作戦】に参加していた」(p.166)、「神の裁きとイエスの死人のなかからの復活は、従来の宇宙観に対する【正面攻撃】」(p.157)、「当時の多数派である異教文化の知的な陣地に向かって【果敢な攻撃を加えている】」(※【】は引用者)。

 これらの表現からは、イエスが抗った不寛容、独善性が滲み出ていると思います。

 この本は、現代社会で人びとを苦しめている不正義の文化と闘うための資本をキリスト教共同体から汲み取る助けにもなりえますが、キリスト教のみが正しい、教会や牧師の言うことには絶対服従しなければならないという者たちが悪用する可能性もあります。

 教会が共同体として、旧約、新約を貫く、いのちを愛し、死と闘う文化を担い、教会に集う人々に伝えていくことは非常に重要ですが、それが洗礼と同一視されるとどうでしょうか。

 聖書の中では、たしかに、あらたな価値観を身に着けたあたらしい生き方も促されていますが、いまあるがままのすがた、相対なる者でもあるにも拘わらず、赦され、生かされているわたしたちの生の現実も示されています。

 洗礼は、このどちらの意味をも帯びることができると思います。

 いや、教会そのものがこのどちらの意味をも担い、洗礼を受けている人にも、受けていない人にも開かれ続けていくべきではないでしょうか。

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