「『新』キリスト教入門(1)」(新免貢、 燦葉出版社、2019年)
キリスト教の一般的な入門書には、聖書に書かれていることの概要、キリスト教史の大まかな流れなどが記されていますが、本書は、まったく違います。
たしかに聖書が何箇所か引用されてはいますが、それらは、抑圧された人びとを解き放つメッセージとして説き明かされています。
その姿勢は徹底しており、たとえば、黒人解放運動のキング牧師については、「育ちも良く、高等教育を受け、知識を蓄積したうえで指導者になった」(p.259)と評し、彼を論じる人びとは「英雄史観」に立っている、「キング牧師の偉業をたたえればたたえるほど・・・・抑圧されている人びとの現実から離れて」(p.260)いくと指摘しています。
セクシャリティの観点からの著者の聖書の読みも魅力的です。新約聖書のガラテヤの信徒への手紙で著者パウロはこう記しています。「3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」
これは洗礼式に関わる言葉ですが、現代のキリスト教会で洗礼式でこの言葉を読むところはほとんどなさそうです。しかし、著者は、この「男も女もありません」の箇所をギリシャ語原文から「男と女と言うことがない」と訳し、「現代のセクシャリティ(性的ありよう)理解にもつながる」(p.108)とし、洗礼式で読まれることが望ましいとしています。
清浄・不浄についての著者の聖書解釈も示唆に富んでいます。新約聖書には、イエスが若くして死んだ人の棺に手をかける場面が出てきます。イエスの生きた社会では死は不浄とされていましたが、イエスのこの行為は、清浄・不浄の差別に打ち克つものと見なされます。そして、イエスのこのような生き方は「感染」していったと著者は論じています。
入門とありますが、長くキリスト教に触れてきた人も、この本で「新たに」「入門」してみてはいかがでしょうか。