197 「神さまが種を蒔かれる意外なところとは」

 「天の国の種 マタイによる福音書を歩いて」(バーバラ・ブラウン・テイラー、2014年、キリスト新聞社)

 アガペーとインマヌエル。アガペーとは誰にでも無条件に贈られる神さまの愛。インマヌエルとは、神さまが一緒にいてくださること。これは、ぼくのブログのタイトルであるばかりでない。聖書によって、神さまがぼくらに伝えようとしてくれていることは、つまるところ、このふたつだ、とぼくは思う。

 「今最も愛されている(アメリカ)聖公会の女性司祭の説教集」という触れ込みの一冊。説教作りに苦しむぼくは、読まずにはいられなかった。説教を良くしたいから。

 じゃあ、良い説教ってなんだろう。ひとりぼっちだとさびしがっている人に、いつでも、いつまでも、神さまが一緒にいるよと伝える説教のことか。価値がないから誰からも愛されないと悩んでいる人に、神さまはそんなぼくらを見返り無しで愛してくれているよと語りかける説教のことか。そういう神さまに憧れて、ぼくらも、誰かと一緒にいることができれば、誰かを無条件に愛することができれば、という祈りを促す説教のことか。

 けれども、それはかならずしも劇的に起こるとも限らない。バーバラも、ぼくらが受け取るのは、「天からの火の玉の一発や、大波を起こす神からの一撃」ではなく、「ポタリ、ポタリと絶え間なくしたたり落ちてくる、憐みのしずく」(p.34)だと言う。触れ込みの割には、地味だけど、この方がかえって、ぼくを信頼させてくれた。地味だけど、うつくしく、ひきつけ、愛される表現だ。

 イエスさまの得意な神さまの国のたとえについても、彼女の説教は、落ち着いていながら、生き生きとしている。「天の事柄について語りたいなら、地上の事柄からはじめたらよい・・・・・主イエスはそう語っておられるかのようです。たとえば、男、女、畑、種、鳥、空、パン種、パンという言葉から。・・・・・地上は天の国の種が蒔かれている場所であるからです」(p.85)。

 アガペーやインマヌエルも、日常の経験や言葉から始めるのが良いのだろうな。

 この本を手にする人は、十五の説教をとおして、マタイ福音書を、これまでとは一味違う切り口で、楽しめることでしょう。アガペーやインマヌエルはすでに知っているメッセージでありながら、同時に、ぼくらが知らない、つねに、すばらしい新しい知らせGood News(Oldsではない)でもある。

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