196 「あなたの嘆きが喜びに変わるとき。旧約詩人に学ぶ」

 「旧約聖書に見るユーモアとアイロニー」(月本昭男、2014年、教文館

 詩編を読んでいると、最初は敵や神さえも呪うまでに自分の苦境を嘆いていた詩人が、とつじょ、神に感謝し、ほめたたえ始める、という場面にしばしば出くわします。いったい何が詩人に起こったのでしょうか。何がこの大変化を生じさせたのでしょうか。

 これは、いちおう旧約聖書を専攻していた(ことになっている)ぼくの関心のひとつでもありましたが、四半世紀ぶりに説得力のある新しい見解を、この本の二番目に収められている講演に見出すことができました。一般向けのお話ではありますが、旧約学を誠実に研究し、教えることで、最前線を推し進めてきた月本先生のお言葉ですから、じゅうぶんに信頼に値するものだと思います。

 なぜ嘆きが喜びに。これ以外にも、旧約聖書についての疑問や旧約学の課題はいくつもあり、本著でも、いくつか触れられています。

 「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53:5)。

 「彼」とは誰か。この「彼」は、イザヤ書の他の数箇所にも出て来るとされ、「苦難の僕」と呼ばれたりしています。福音書では十字架のイエスと重ねられる、これは誰なのか、これも古くからの大きな課題です。これについても、月本先生のお考えは、非常に新鮮で、深くうなづけるものでした。

 旧約聖書は、神が民を救済する歴史(救済史)を物語っているのであれば、天地創造や人間以外の動物や植物、あるいは、歴史以前の人間創造物語(創造信仰)にはどのような意味があるのか。これも旧約聖書研究の重要テーマです。

 これについても、月本先生は、ぼくらが学生時代に読んだフォン・ラートというドイツの学者の影響力の強い説を建設的批判的に乗り越え、そこに、内村鑑三の無教会信仰を接ぎ木し、神の救済について、考えうる最大、最高、最愛の幻を示しておられます。

 25年前の課題は課題としてありつづけているのですが、それに対して、新たな解答が出し続けられてきて、月本先生がそのフロントラインにおられることを感じ、ぼくも数時間で学生時代からの溝がかなり埋まったようなさわやかな気持ちになりました。

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