「神の元気を取り次ぐ教会 説教・教会暦・聖書日課・礼拝」(石田順朗、2014年、リトン)
「元気」に魅かれて、読みました。取り次ぐべきは、たしかに、「教え」ではなく、希望のメッセージですよね。
説教の主役は説教者ではなく神さま。「説教者が語る時、神が語る」というのは、説教者の発言は神さまの言葉なんだぞ、という権威づけなどではなく、むしろ、説教者は自分をひっこめ、神さまと聞き手に仕える、サービスするということでしょう。
説教者のつとめは、神さまについて「論証」することではなく、「証し」すること。ですから、本当は聖書を五度くらい再読して、それを説教としたいところですが、そういうわけにはいかないので、ぼくは、その聖書の箇所のポイントを、わかりやすく、また、聞きやすく伝えようと願いつつ、説教をしています。
著者は、聖書の言葉を一言一句そのまま事実とするファンダメンタリズム、その反対に聖書の言葉にも歴史的な限界があることを踏まえるリベラリズム、そして、その中間の立場のいずれかひとつにこだわる必要なない、と言っておられますが、そのとおりだと思います。無節操であるべきだと思います。中間の立場を「一種の「言霊(ことだま)信仰」に傾く神秘主義的な立場」と表現しておられますが、これは、おもしろくもありますが、もっとわかりやすく練り直すべきだとも思いました。
礼拝はサービスだが、神さまがまずわたしたちにサービスしてくださって、それへの応答、感謝として、わたしたちの神様へのサービスがある。まさにそう思います。
会衆が「ピンときた」「意味があった」と感じることが、案外、大事。案外どころか、そうとう大事だと思います。聞き手に配慮しない説教は、神に配慮しない説教と同じくらい、聞くに堪えられません。
律法を語ることを避けてはならない。ただし、こうしなさい、こうしてはならない、のきまりを教えるのではなく、罪を知らせるために。そうなのですが、罪は自分で認識していないと、人から言われると、怒ってしまう人がいます。また、ちかごろは、「罪」「エゴイズム」より「弱さ」「不安」「孤独」「存在する意味の不明」「自己肯定感の欠如」などの門の方がまだ神さまに届きやすいのかも知れません。このあたりを律法とどう絡めて考えるのか、ですね。
現代社会の人々がどういうふうに元気がなく、神さまのどういう元気が取り次がれるべきなのか、考え続けたいと思います。
説教や礼拝の意味、教会暦や聖書日課については、とても参考になります。