190 「井上ひさし一押しの文章読本」

 「文章読本」(丸谷才一、1980年、中公文庫)

 この人の文章なら読みたい。そんな名文を書くにはどうしたらよいのでしょうか。いや、名文などでなくても、読んでよかった、と三回か四回に一度くらい、思っていただけるくらいにはなりたいと。

 井上ひさしさんは、この本、とくに、第二章「名文を読め」を繰り返し読むのが良い、と書いていました。

 丸谷さんは、この章題のとおり、自分にとっての名文を何度でも読み、熟読し、ときに音読し、「心の底に貯へ」ることで、文章の書き方を学べる、と述べています。才能とは伝統の学び方の才能であり、「先人の語彙、過去の言ひまはし」が、わたしたちの文章を織る際の糸になると。わたしたちは、新しい「言葉」の創造などできず、ただ在来の言葉を組み合わせて新しい「文章」を書こうとするだけだと。

 ところで、この第二章に名文の例が引かれていて、志賀直哉佐藤春夫石川淳の口語体は読めても、世阿弥、石川、斎藤緑雨などの文語体は、お手上げでした。丸谷さんや井上さんは、こうした文語体にこそ、日本語の伝統があり、口語体の基礎にもなっている、と言うことなのでしょうけれども。ぼくは、名文は、口語体だけにしておきましょう。

 他の章にも、文章を書くためのヒントがちりばめられています。

引用は、引用する人とされる人を一体化し、今ここに過去を呼び出すことであり、必然性のある引用は長くてもかまわないが、引用文に負けない質の文章を自分も書くこと。

 抽象的な、あるいは、観念的な言葉より、具体的なイメージをもたらす文章を書くこと。(「元気です」より「毎朝、四時に起き出し、仕事にとりかかり、明るくなれば、表を掃いています」、というようなことだと思います)。イメージは文章に説得力をもたらすこと。イメージ喚起には、名詞より、むしろ、動詞が大事であること。これは、聖書の読み方のヒントにもなります。神やイエスの行為は、動詞の羅列で表現されることがしばしばあります。

 ただし、イメージが大事でも、イメージ的な例話と結論の論理的関係が明確でない場合、うさん臭くなるとも。けれども、ぼくは、口話の場合、例話や体験談、時事ネタなどには、聞き手のリラックスや注目を促す効果も期待できるので、かならずしも、論理的な連関がなくても、あるいは、ゆるやかでもよいのではないか、とも思います。文章は、そういうわけには行かないでしょうけれども。

 文体とは、わかったようでわからない言葉ですが、丸谷さんは「ちょっと気取って書く」こと、あるいは「気取らないふりをして気取る」こと、これが文体の核心であり、「装ふといふ心意気」と「装ふ力」が必要だと言います。

 その他、対話的な文章、螺旋階段的な文章が望ましい、文章を書くとは直線を引くことではなく平面を織りあげていくことなど、有益な示唆が並んでいます。

 あるいは、過去のことを述べる時も現在形をまぜる、「である」づくめは止めて、「だけれど」「なのに」、体言止めなどの結びも差し込んでみる、ともありました。

 話を戻すと、名文を読むことは、型つまりは修辞法、レトリックを身につけることにほかなりません。けれども、日本の近代化においては、江戸期の過剰な様式は捨て去られ、西洋文明は様式とは無縁の率直、露骨なものだと勘違いされてしまい、富国強兵、帝国主義という、レトリックなきもの、文体のないものが横行した、と丸谷さんは言います。言いたげでした。「レトリックをしりぞけて、現在の言葉だけで語らうとするとき、われわれの世界はたちまち浅くなり、衰へる」(p.374)と。(明治憲法は論理的にも不誠実な悪文だとも。)レトリックがなくなる時、戦争が起こり、人が苦しめられるのです。

 であれば、ぼくたちが、名文を読み、それを少しでも、自分の駄文にも反映させようとすることは、世界平和、深みのある世界の生存の、すくなくとも、方角は向いているのではないでしょうか。ぼくの場合、心の奥底に貯まって浮かんでこないか、底に穴が空いているか、ですけど。
 
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