569 「牧師に小説講義、は意味があるか」 ・・・「短編小説講義 増補版」(筒井康隆、岩波新書、2019年)

 教会の牧師として、三十年間、毎週つまり一年に五十回、ニ十分弱のお話をしてきました。その原稿として、三十年間、毎週三千字ほどの原稿を書いてきました。

 

 けれども、文章は一向に上達せず、多くの人に読まれる名文なども書いたことはありません。ブログなどにもずいぶん書いてきましたが、活字というか出版レベルには届いていないようです。そんな話は一度もありませんから。

 だから、少しでも良い文章を書きたいと思い、こんな本も読むのです。しかし、これからも、うまく書けるようにはなれそうもありません。というのは・・・

 

 「おかしなことを書いてしまったことに気が付いても滅多に書きなおさない。そして事実、なんとか無理やり辻褄あわせをした結果、かえって筋立てが複雑になったり、物語にふくらみが出たりといったような思いがけない効果が生まれる場合もあるのだ」(p.22)。

 

 ぼくも書き直しません。たった三千字のものでもです。文章全体の構造を変えるべきときでも、そうはせず、簡単に手を入れて、ごまかすだけです。しかし、これは小説家もやっていることなのですね。ただし、ぼくの場合は、「思いがけない効果」が生まれたことはなさそうです。

 「重い病いに冒されていながらその病いさえ創作に利用してしまうホフマンのしたたかさに驚くべきではないだろうか」(p.39)。

 

 ぼくも自分の負の経験をお話のおかずにしたくなることはありますが、聴き手はどう思うでしょうか。自分語り、不幸自慢と思われるかもしれません。だから、病気や人間関係の葛藤などは、「わたしたちにはこういうことがある」と一般化して話すことがほとんどです。あるいは、有名な人のそのようなエピソードを引用するとか。ただ、やはり語り手自身が経験していないとその重さは伝わらないでしょう。ただ、語り手もそういう経験をしているのだなという共感を得られるとは限りませんが。もっとも、共感されるために語るわけでもないですが。

 「短編小説を書こうとする者は、自分の中に浸みこんでいる古臭い、常識的な作法をむしろ意識的に捨てなければならない・・・なにしろそれは・・・新たな言語芸術を作らせまいとしてわれわれの中に巣食っている毒なのだから」(p.151)。

 

 ぼくの毎週の話は、本論において、聖書の言葉と現代のぼくたちの経験を重ねあわせる、話が単調にならないように、ストライクばかりだけでなくところどころにボールも混ぜるくらいのことは考えますが、序論、本論、結論の構成は変わりません。

 

 結論は本論から導かれていきますが、序論は工夫したいと思っています。いきなり本論口調で始めず、聴き手の注意を引き付けること、そして、リラックスさせるような切り口にしたいと心がけています。毎回うまくいくわけではありませんが。

 ・・・というわけで、この本を読んでも、ぼくの文章は上達しそうにはありませんが、まあ、自分の書き方をふりかえることはできました。

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