誤読ノート189 「まじめに、ふまじめを貫く詩人」
ある日の朝日新聞、一面、最下段。
「他者とどう折り合うか」と題された天声人語。曰く、「沖縄生まれの詩人、山之口貘(ばく)の「存在」という詩は問いかける。〈僕らが僕々言っている/その僕とは、僕なのか〉」。
これに宣伝されて、たちまちアマゾン。
用を足すついでに、ちびちび、なめつづけてみた。
沖縄には、器量は悪いが、詩人のような木、人の悲声や涙で育つという木があるそうだ。
虎年、動物園、加藤清正、ひつとらあ。
科学の頂点によじ登るようだが、飛びっぱなしではなく、まっすぐに落ちてくる飛行機類。
ぼくは何かでないといけないのか。ぼくはぼく。だから飯をくれ。いのちをくれ。ぼくがぼくだと信じられないのなら、神だと思って、ご勘弁を。
空手や泡盛の同義語のように眺められるぼくの国。
朝が来て見れば、顔は草をおしわけ地面に。足、手、胴体が乱雑。それをかき集めるぼく。
「私の思想は死にたいやうでもある/私の骨格は生きたいやうなのである」
わかった気がする箇所はこれくらい。
読み直しても、わからないところも多い。おかげで、二度も通読できたよ。
詩心は名づけることにある、とは別の人の言葉。
山之口さんは何を名づけようとしていたのか。
意味がわからない名前は、たしかにある。
ぼくが、感じたのは、山之口さんは、まじめなことに、ふまじめに名づけようとしたのでは、ということ。女、飯、仕事、とら・・・。
でも、そのふまじめさが、とてもまじめ。