175 「言葉で教えることから、イメージをわかちあうことへ」

 「セラピスト」(最相葉月、新潮社、2014年)

 読みながら、心がなごむページがたくさんありました。というのは、日本を代表するセラピスト、木村晴子さん、河合隼雄さんらが、クライアントや著者と向き合っているときの生の声が聞こえてくるからです。とくに、著者が絵画療法を受けた時の逐語録に漂っている中井久夫さんの声や息づかいからは、とてもやすらかな空気が漂ってきます。

 この本のぼくへの、もう一つの恩恵は、人との接し方、言葉の交わし方や、悩んでいる人の支え方について、ゆたかな学びがあたえられたことです。この学びと、先に触れたなごみは、同じ事柄のふたつの面のようにも感じています。

 中井さんは、言葉には善悪や正誤、因果など、いわば、建前がつきまとうが、絵はそこから自由にしてくれる、と言います。中井さんは「はあーい」という声、微笑み、ゆっくり振る手で、最相さんを迎えます。最相さんが絵を描いているあいだ、中井さんは、それに重い視線を乗せることなく、いすにゆったりとすわっています。そして、最相さんの絵や言葉に、「ははあ」「ほほう」としきりに感心するのです。最相さんは、話の方向や、相手の出方を気にせずに、つまり、因果から解放されて、ただ話の流れに身をゆだねる、濃い時間であった、と振り返っています。

 河合さんについても、ある医師が分析を受け、自分や夢について話しても、「ほほう」とうなずくだけで、何もしなかった、それはまるで、何かをしないことに集中しているようだ、と述べられています。

 両者に共通するのは、クライエントの立場になって考えることを基本にしている、つまり、相手の存在を尊重し、相手を待つ、という点だと最相さんは言います。待つとは、すなわち、相手を助けたいという熱意を直球でぶつけるのではなく、それは内側にとどめて、自分は一歩退く、相手が沈黙すれば自分も沈黙して待つ、ということなのです。

 この本には、さらに、ロジャースの、傾聴を中心とする来談者中心療法が戦後、日本に導入されるにあたってのアメリカの意図や、その後、ヨーロッパから紹介された箱庭療法が広まった事情、さらには、最近の心のケアをめぐる状況など、興味深い記述がいくつもあります。

 この本はまた最相さん自身の物語でもあることが明らかにされています。

 キリスト教の牧師であるぼくは、聖書の意味を言葉で説明することが多いのですが、さいきんは、沈黙の祈りとか、ろうそくの炎とか、音楽とか、言葉以外のものが大事だと感じていたところでした。この本に出て来る中井さんの声に、さらに促される思いです。

 言語からイメージへ。教えから、わかちあいへ。聖書自体が言葉で書かれているので、言葉を無視することはできませんが、言葉や物語も、一語一語一文一文、論理的に解釈するのではなく、細部は捨てて、話の中の矛盾も気にせず、全体でぼーっと感じる読み方や、そういう説教も良いのではないかと思っています。丁寧な、筋の通った説明より、ぼんやりとしたゆるやかなイメージの方がわかちあいやすいのではないか、と期待しています。

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%94%E3%82%B9%E3%83%88-%E6%9C%80%E7%9B%B8-%E8%91%89%E6%9C%88/dp/4104598038/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1392274826&sr=8-1&keywords=%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%94%E3%82%B9%E3%83%88