「魔女ジェニファとわたし」(E. L. カニグズバーグ、1989年、岩波少年文庫)
十才のエリザベスは、ハロウィンに出会ったジェニファに少しずつ魅了され、魔女見習いになります。そして、過ごした六か月の日々。
このお話しにはどんなメッセージがあるのでしょうか。訳者、松永ふみ子さんは「頭が切れて感受性が強く、誇り高いジェニファは、じぶんから魔女になって殻にとじこもっていましたが、さいわい冷静な常識家エリザベスのおかげでふつうの子どもの世界にもどることができました」(p.189)と解説しています。
たしかに、「もう、ふたりとも魔女のふりなんかしません。いまでは、ありのままのわたしたちで、たのしいのです。―ほんとうのジェニファと、ほんとうのわたしで―仲よしなのです、わたしたち」と物語の結びにはあります。
魔法は終わったのでしょうか。いや、この言葉自体が見習いを終えた魔女の魔法なのかも知れません。
鶴見俊輔さんは「『魔女ジェニファとわたし』には、一〇歳の少女たちの心の動きがなだらかにそのまま現れて、実人生を飛び越えてゆくたのしみを味わわせてくれます」と述べています。
たしかにそうです。「図書館は、ひそひそ話をするところです。ジェニファは、まるでやかんからでる湯気みたいなシュシュシュという音で、すばらしく上手にひそひそ話ができました」(p.43)というくだりなどからは、少女たちの感覚世界が鮮やかに伝わって来ます。
たほう、「ジェニファは、もしあんたが意味のあることばかり求めてるようなら、昇格はまだ早いといいました」とか「わたしは、もしまちがってタブーを破るといけないから、タブーのリストをちょうだいといいました。けれど、魔女はリストなんかにたよらないものなのですって」(p.126)といったあたりでは、常識的な現実がたしかに飛び越えられているのです。
この魔法はいつかは覚めてしまうものなのでしょうか。charmという英語には「魔法をかける、魅力的である」という意味があります。人が出会い、付き合いつづけていくには、おたがい相手に魔法を感じる必要があるのではないでしょうか。
引用した鶴見さんの言葉に誘われてこの本を手に取ることにしました。鶴見さんの「つづった」ものには、「抗しがたい魅力」、「魔力」がありますね。こちらは、spellを調べてみてください。