「高校生のための近代文学エッセンス ちくま小説選」(筑摩書房、2013年)
ぼくは子どものころ、あまり本を読みませんでした。それでも、小学校のころは、本が読めなかった記憶はありません。多読ではなかったけれども、読んで読めないことはなかったのです。
ところが、中学、高校、大学と、読めなくなりました。読んで意味がわからない本がたくさん出てきました。また、読んで意味を分かろうとすること意識が、かえって読みを妨げ、行でつっかえるような感覚が強くなってきました。そこで、意味など気にしないで、とにかく文字と行に目をやるということを試みるのですが、それだと全然頭に入りません。
読書をする際に、どうも頭に何かがひっかっかる、もしかしたら、ごく軽度の読字障碍なのかもしれません。学力、直観力の欠如もあるでしょうが、おそらく意識的な問題も大きいと思います。
小説も、井上ひさし、星新一くらいで、ドストエフスキーとか大江健三郎とかは読まないで、二十代を終えてしまいました。
三十代半ばに、自分の教養のなさ、読書の蓄積のなさを痛感し、にわかに、読書を心掛けるようになって、二十年弱。それでも、読字障害的感覚、脳内の曇りは払しょくできません。
そういうぼくにこの手の本は魅力的です。文学的素養が身につき、小説を深く理解できるようになり、そう、解釈のある読書ができるようになるのではないかという期待感。本を読めるようになりたい!
その成果はさておき、この短編集、千円はお買い得です。さまざまなジャンルから22編の小説。明治の文豪、昭和から現代の作家に加えて、オーウェルやマルケス。
巻末の町田康「一言主(ひとことぬし)の神」。ぼくより二歳若い方ですが、非常におもしろかった。天皇と言葉によって存在しない者を存在させる神のお話。「言葉の分節作用」などということをどこかでききかじっていると、多少の役に立つものです。
その前の耕治人「どんなご縁で」。これは長年連れ添ってきて、今は認知症の妻との日常生活。そこでの一言。高齢者の生活にこれまた、いくぶんか触れてきた上で、介護小説のこういう言葉を読むと理解がすこしはましになると思います。世の中、ぼくが知らなかった、興味深い小説や作家はたくさん存在するのですね。
小説は若いうちにと言います。若いうちから読み重ねれば、読む力がつく人にはつくでしょう。でも、学成り難しの齢から読み始めても、その場合は、経験や知識、これまでの思考が読書の助けになる、というのは、さぼったものの言い訳?
教養を身に着けるべき新緑の時期の気分を味わいながら、おとな読みもできる、一石二鳥?