「切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話」(佐々木中、河出書房新社、2013年)
やっぱり、文を書き続けよう。と、ぼくはこの本に励まされた。数冊の翻訳とわずかの雑誌記事以外に、ぼくの書いたものが本になったことはない。文に力がないのか(きっとそうだ・・・)、あるいは、おごった言い方だが、読者があまり育っていないのか。
本にしてもらえないから、ネットで書く。出版物にされないそれらの文はどこに行くのだろうか。インターネットの密林で忘れ去られるのか。何百年かのちに、誰かの検索にヒットして、読んでもらえるのか。
じつは、ドストエフスキーの時代には、ロシアには字が読める人はほとんどいなかったらしい。読者なんて、今と比べれば、存在しないに等しかった。けれども、彼は書き続けた。いまや、世界中の何千万人もの青年が「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」を手に取り、読みふける。
何千万人などでなくてよい。たった一人の人が、千年後に、たまたま、ぼくの書いた文を読み、ああ、これだ、ああ、こうなんだ、と思ってくれて、少し何かが変わるきっかけになればよい。いや、そういう結果にならなくても、文を書くこと自体に、革命が孕まれている。結果以前の希望に、すでに意味がある。文を書くとは、そういうことだと教えられた。
表現は文だけでない。「詩も、歌も、ダンスも、楽器も、リズムも・・・あるいはさりげない日常の挨拶とか、挙措とか、表情」(p.156)にも革命が宿っている。楽しいことを思い、和やかな顔をする、固まった冷たい面々の前で笑顔でいつづける、それを見て、はっと気づいたり、変わったりする者が百万人にひとりくらいでもいるかも知れない。
ならば、憎むのではなく怒り、嘲笑するのではなく微笑もう。暴力ではなく生産を、殺すのではなく、育てよう。盗むのではなく、わかちあおう。これらを内包するあらゆる表現には、結果が出る前から、意味がある。だから、表現し続けよう。
他の時代と同様に、「もう終わり」とか「無意味」とかいう言葉が支配するこの時代に、「いや、終わりではない、始まったばかりだ」「結果ではなく、それ以前の書くこと、表現すること、いや、それに先立つ、〈読む〉ことに意味がある、読んで読み換え、書いて書き換える、そうして、希望は何百万年先まで進みゆく、そういうメッセージをこの本から受け取った。「誤読」「改ざん」かもしれないけれども。
ちなみに、こういう題、副題ですが、じつは、宗教を否定し、革命を賞賛する本ではありません。生きる意味と勇気を見いだせる一冊です。