141 「被害者の中にいる加害者の暴露」

映画「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督、2012年) 

 数百万のユダヤ人を強制収容所に送る指揮をしたナチス親衛隊員、アイヒマン

 この男の裁判傍聴と、それに基づく論考の執筆、それへの人々の反応に焦点をあてて、ハンナを描く。

 ユダヤ人同胞は、アイヒマンが凶暴な極悪人であるとハンナが暴いてくれることを期待したが、そうではなかった。アイヒマンは命令に服従した官僚に過ぎなかった、と彼女は書いた。ただし、思考というものをまったくしない陳腐、凡庸な人間であると。熱く、深く思考し、思考によって生きるハンナとは、正反対に。

 これと並んで、もうひとつ、強烈な批判を招いたのは、ユダヤ人上層部にナチへの協力者がいた、という暴露である。暴露されるべきことが暴露されず、暴露されてはならないことが暴露され、同胞は怒り、友が去っていった。映画の結末は、感動的な和解でもなければ、陳腐なそれでもない。葛藤のままだ。

 同国民、同集団、同組織の者の非を認め、批判することは、じつは、そんなに難しくない。ハンナが苦しめられるのは、同胞が被害者であり、被害者の中にも、被害者でありながら加害者に加担している加害者がいて、そういう加害者を批判するからだ。同胞は皆、ひどい目に遭ったのに、その同胞を加害者と言うのか、というバッシングに見舞われる。

 被害者の中にいる加害者の暴露。指摘。難しい。ただし、ぼくはハンナの場合と違う。同胞ではなく異者として扱い、こちらが大いなる害を与えた相手。その中にいる加害者。

 日本人、ヤマトンチューであるぼくは、ある韓国人、あるウチナンチューの中にある不正があると確信した時、どうするのか。加害者であるぼくが、たとえそれとは別の件であっても、是是非非と言えそうな場合であっても、顔をしっかり向けて批判をする回路を見出せるのか。

 ハンナは考え抜くことで突破した。衝動的にではなく、冷静に、冷淡ではなく、熱く、思考しつづけることで。

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