「死を見つめて(中学生までに読んでおきたい哲学?)」 (松田哲夫編、あすなろ書房、2012年)
死についての小文集。向田邦子、伊丹十三、池田晶子、神谷美恵子、河合隼雄、埴谷雄高、石原吉郎、そのほかの、読みごたえある執筆陣。大人が読む本。十代、二十代の若者が、現代文の点数アップではなく自分の思索と教養の積み重ねのために読むのなら、すばらしい。
ちょうど真ん中あたりに収められた作品で、宗教学者・岸本英夫さんは、死は実体ではない、生命という実体におきかわるものとして死という実体があるのではなく、死は生命=実体がなくなる、ということだと述べています。人間に与えられるのは生命だけであり、死は与えられるのではなく、その生命がなくなるだけのことだというのです。
巻頭でも、南伸坊さんが、イラストつきで、「死んだら、死後の世界はなくなる」と言っています。つまり、死とは生きている人の頭の中にあるのであって、その人が生きていなくなると頭の中の死もなくなる、ということでしょうか。
しかし、これらの議論は、死を個の問題としてだけとらえているのではないか、とも思われます。その人が生きていなくなってその頭の中の死もなくなっても、生き残った人の頭の中には死はありつづける、それも、無ということではなく、その人と生き残った人との関係という形で、死はありつづけるようにも思えます。
ちなみに、キリスト教では、永遠のいのち、と言いますが、これは、「わたし」という個の永続ではなく、永遠なる神とのつながりのことで、それは死によっても断絶されるものではない、とぼくは信じています。わたしという個が永続して、それが神とつながっているのではなく、永遠なる神と永遠につながっているという形で、わたしという個の永遠があるのだと思います。
かと言って、この本が、死などは生者の脳内空想物に過ぎないと言っているわけではありません。言及した二人も含めて、執筆者たちは死を深く掘り下げています。しかも、それぞれ、さまざまな角度から。
神谷美恵子さんは、自死を望む人は、とにかく「踏みとどまる」ことが大事で、そこに生じる時間には癒しや変化をもたらすふしぎな力があり、これは周りの説教や励ましとは違う、人間の根本的な生命力であり、誰にでも備わっている、と言います。
松田道雄さん(小児科医、評論家)は、どんなに重い病気の人をも高齢者をも「大丈夫です、また元気になりますよ」とはげましつづけ、患者たちは、自分は回復すると信じつつ死んでいったと記しています。これでは、自分の死に向かい合っていないように思えてしまいますが、それでも、この医師の姿勢には無視できないものがあります。
河合隼雄さんは、死にたいというところに戻ってしまう話は聞いても仕方がないように思えるが、そうではなく、本人にとっては自分の抑うつ症を考える重大な鍵となる、と述べています。
石原吉郎さんは、「人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならない」と記しています。
この三者を見ると、やはり、本書は、死を個人の問題にとどめておらず、人と人との関係の中でも捉えようとしているようにも考えられます。
最後に、わかりやすく、馴染みやすい佐野洋子さんの言葉。「いつ死ぬかわからぬが、今は生きている。生きているうちは、生きてゆくより外はない」「いつ死んでもいい。でも今日でなくてもいいと思って生きるのかあ」。
また、個にもどってしまったかな。生きていることも、関係性の中にあるのだけれど。