「悲しみに寄り添う 死別と悲哀の心理学」 (K. ラマー著、浅見洋・吉田新訳、新教出版社、2013年)
大切な人に死なれ、悲しんでいる方々には、どのように寄り添えばよいのでしょうか。
本書の巻末にはつぎのように述べられています。
亡くなったことを言葉ではっきりと伝える。死と悲しみについて語ることを避けない。
悲しめる場所と時間、機会、場を提供する。しかし、いまここでそうするように促さない。
慰めるつもりで、その人を落ち着かせたり、感情を出さないように求めたりしない。
「あなたが今、感じていることは、わたしにもよくわかる」などと言ってはならない。
大事な人をなくしたこの人はこんな反応を示すだろうと期待したり予想したりするのではなく、相手が起こす反応を注意深く受け止める。
連絡を待つのではなく、自分からその人のもとに赴く。(本書の中ほどでは、悲しむ人に寄り添うには早いほうが良い、とも述べられています。) 「何かあったらいつでも電話をください」というのではなく、自分から電話をかける。
これらに共通していることは、わたしたちが口から出す言葉で相手を慰めるのではなく、その人の中にある悲哀に形を与える、ということだと言えるでしょう。形をもって悲哀を経験することが喪失体験の克服を促すと著者は述べます。
その点、宗教家は祭儀によって、その人の強烈な悲哀に形を与えることができるとも。葬儀における牧師の役割のひとつとしてこれを意識していこうと思いました。病院に駆けつけてから、お骨を持って帰ってくるまでのプロセスの中で、ご家族に悲哀を内に込めず外に出す場を作ることを心掛けようと思います。
また、聖職者の述べることは、「わたしはあなたの苦しみをしっかりと見ている。あなたを見捨てず、共にいる」と告げる神を象徴している、とありました。牧師も、牧師でない人も、言葉で慰めるというよりは、寄り添う存在、耳を傾ける存在として、神がここにいることの兆しになれるのかも知れません。
なお、著者は、キューブラー・ロスらが提起した悲しみの段階モデルは、「正しい」悲しみのあり方として、悲しみを画一化してしまい、克服の妨げとなりうるという見解を示しています。
悲しむ人に寄り添う者は、「今、この人は悲しみのこの段階にある(はずだ)」と観察したり期待したりするのではなく、人によって悲しみが異なることを受け入れ、臨機応変にその人にふさわしい寄り添い方を試みるべきだと言うのです。
牧師でなくても、とても参考になると思います。おのずと機会が増える四十代、五十代以上の方々におすすめです。遺体の筋肉は時間とともに緩み、安らかな顔になる、という記述も印象的でした。