二千年前のイエスという人物を描くことは、大河ドラマの脚本を書くことに似ています。その試みはイエスの死後百年の間にすでに始まっていますが、そこでは、書き手や読み手にとってのイエスの「意味」だけが重視され、場面の緻密な再現や登場人物の内面の描写はほとんど意図されていませんでした。それが新約聖書の描くイエス物語です。
しかし、イエスを大河ドラマ化し、登場人物に想いをゆたかに語らせるには、脚本家は、新約聖書を資料とし、他の資料もながめながら、さらには、想像力を駆使し、それを言語や文にしなければなりません。
山浦さんは、みごとにそれをやってのけました。時代背景についての知識、ギリシャ語、ヘブライ語などの語学力を縦糸に、東北・気仙でのご自身の生活・言語活動・医療活動、想像力を横糸に、そして、イエスへの惚れっぷりを芯にして、ナツェラット=ナザレの男イエスについてのあらたな脚本を完成させたのです。
たとえば、聖書には出てこない、少年時代の師匠は、イエスに神への心からの信頼と謙虚さを教え込みます。少年イエスは「神さまはご自分がお造りになったどんな物もどんな人も大好きなはずです」と述べ、ラビたちを黙らせます。
大人になったイエスのことは、ガリル(ガリラヤ)出身で訛りのひどい田舎者だと言う者もいますが、「井戸端で村の女たちがキャーキャー評判をしている」「凄い神通力」「どんな悪霊もたちどころに追っぱらってしまう」「人懐っこくニコニコしながら」「目を覗きこみ、肩に手をかけ、痛いところをやさしく撫でさすり」病人をうっとりさせ、「無邪気な食いっぷりの」、うわさの人物としても描かれます。
山浦さんは、聖書に出て来る人物、自分が創造した人物の目と語りを通して、聖書の描写の簡潔さの隙間をていねいに埋めていきます。また、イエスと病人からなされる治療場面には、山浦さん自身の経験や心情が重ねられているようにも思えます。
筆者の手にかかると、聖書の記述や一般通念では裏切り者とされるユダが生き返ります。単純で思い込みの強いペトロの誤解により裏切り者とされてしまいますが・・・使徒行伝の記述を利用した山浦さんの「創作」は読みごたえがあります。
けれども、わたしは、最後の二行ガナーヴのセリフに込められている山浦さんの意図の理解に自信がありません。渾名から「本名」宣言へ。その「本名」にはどういう意味が込められているのでしょうか。
それはさておき、わたしたちも「正しいイエス像」ではなく、間違っていても、ゆたかなイエス像を大胆に描いて、ぜんぜん構わないのではないでしょうか。そして、そこにも、今ここに生きるわたしたちの、今ここに生きる救い主が、風のように降り立ち、宿る可能性があるのではないでしょうか。