119 「イエスのイメージをよりゆたかに」

「イエス入門」(リチャード・ボウカム、2013年、新教出版社

 使徒信条にはイエスの誕生と死しか述べられておらず、イエスの行動や発言、思考といった部分が欠けていると言われています。もしわたしたちが使徒信条だけによって、あるいは、「イエス・キリストは、地上に生まれ、わたしたちの罪のために死んで復活した神の子」だと言った常套句だけによってイエスをイメージしようとしたら、たしかにそこにもとても深く大切なことが含まれているにもかかわらず、そのイエスの姿は非常に貧しいものになってしまうでしょう。

 その点、本著は、福音書の記述に基づいて、イエスの生を含む、とてもゆたかなイエス像を描くことに成功していると思います。従来の聖書学と異なり、著者は福音書の記述には高い歴史的信憑性を置くことができるとしていますが、そう考えない人にとっても、本著の記述は、歴史事実はさておき、福音書の物語からコンパクトかつ一貫性をもってまとめられたイエス像として、非常に有益だと思います。ヨハネ福音書のイエスなどは、史的イエスから遠いとふつうは考えられていますが、著者は、イエスが語ったと思われることを、言い換えているのであり、歴史上のイエスと無縁ではないとします。

 さて、ボウカムが福音書をイエスの目撃資料として読み、まとめたところによりますと、イエスは自分の言動を通して、神の国が到来しているという強い意識を持っています。そこには、癒しや赦し、疎外された人々への接近、仕えあう共同体などが含まれます。

 ボウカムによりますと、「ファリサイ派の人々は普通の食事を儀式的聖性のならわしに変えたが、イエスは普通の食事を王国の到来のならわしに変えた」(p.80)のです。こういう興味深い記述が本書にはいくつも出てきます。その王国はとくに、社会から排斥され、軽蔑されていた人々のためのものであり、イエスは自らの使命はこの人々に目を注ぐことと意識していたと言います(p.84)。このあたりの見方も、解放の神学などともつながるおもしろい点です。

 イエスはまた、父なる神を非常に親密な関係でとらえていました。自分が神の国にかかわる言動を起こすとき、その権威は神から与えられたと感じてさえいただろうとボウカムは述べています。ヨハネ福音書はこのようなイエスと神との近接をもとにして、それを深めているのだろうと推測されています。

 イエスの神に関するこのような感覚は、神殿指導者層との衝突を呼び、死を招きます。このようなイエスの感覚が、やがてイエスが神として礼拝されることにもつながっていくのであり、けっしてパウロがイエスを神格化したのではない、と言うこともボウカムは述べています。

 福音書も四つあってイエスがどういう人物なのか、自分の中であまり整理されていないという人は、本書の第四章から読み始めるのも良いかも知れません。

 福音書の記述の歴史的信憑性の問題はさておき、福音書がどういうイエスを描いているのかを整理して理解するための格好の入門書だと思います。

使徒信条を唱えているだけだったり、日曜日の礼拝の説教でイエスの言動を断片的に聞いているだけだったりするよりは、厚みのある、いきいきとしたイエス像に触れることができるでしょう。

 本著は、いわば、正典的な聖書の読み方と、近代聖書学と、解放の神学などの重なりあう、プラグマチックな領域から生まれた一冊と言えるかも知れません。

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