最初は朝日新聞学芸部記者として、四十年前から、井上ひさしの劇を観つづけ、台本や小説を読み続けてきた演劇評論家、扇田さんが、新聞、雑誌、文庫本巻末などに、書き重ねてきた劇評、書評、井上ひさし論の集大成。
五十頁近い巻末の年譜を含め、読み応えのある五百頁。もっとも、井上ひさしは、とうていこの一冊に収まる世界ではないが、今後の研究資料としても、一般読者がひさしを振り返るガイドブックとしても、欠かせない図書となるだろう。
井上ひさしの作品のテーマとしては、日本人の戦争責任、国家の戦争責任、国家そのもの、言語、農業、宮沢賢治、東北、演劇、作家論などがあり、それらについて「やさしく、ふかく、ゆかいに、まじめに」わたしたちに伝えてきてくれた。
ところで、本書には、井上ひさしの初期の作品は、イエス・キリストの足跡を下敷きにしているという指摘があり、それは扇田さんがすでに1975年に書いたものであったが、そのころはまだ15歳で、井上読者ではなかったぼくには、2013年の今日、とても新鮮だ。
イエスは、エルサレムの都から見れば、遠い北の農村地帯に過ぎないガリラヤで、弟子たちと活動をしたが、その人生の終わりの方で、都に行き、つかまり、十字架刑で殺される。
同じように、井上ひさしの初期の主人公たちにも、東北出身者が多く、東京あるいは江戸に来て、無残な目にあったり、殺されたりする。しかし、それは徹底的な敗北でありながら、ただの敗北ではなく、硬直した観客や読者に風穴を開けようとする・・・
カトリック信者、というか、カトリックで洗礼を受け、聖書について何も知らないはずのない井上さんが、「珍訳聖書」以外は何も書いていないことを不思議にも不満にも思っていたが、この扇田さんの論は、ぼくにはある種の救いになった。
それと重なることだが、扇田さんは、「井上戯曲の主人公たちは、基本的には、異界から立ち現われ、『地方』的な活力をふんだんにそなえたヒーローなのだ。井上戯曲とは、『地方』と『中央』とがつねに食うか食われるかの、決して果てることのない凄絶な闘いをくりひろげている場のことである」(p.70)とも論じている。
また、井上ひさしは、奇想天外なストーリーテラーと思われがちだが、じつは、「物語」よりも、「人間」に焦点があてられている、という考察も興味深い。たとえば、多くの作家たちは、古典を「同じ次元で別の新しい物語に変換するやり方」(p.92)をするが、井上ひさしは、そうではなく、古典は、井上劇に登場する「人間」を厚く描くために用いられているというのである。
井上ひさし作品は、ときに人間の冷たさ、醜さを描き出すが、しかし、根底には、人間の可能性を信じているところがある。
では、それはどこにあるのか。
たとえば、それは、笑いの創造である。笑いというものは人間の自然の状態にはない。だから、人間が創り出していき、そのことで、少しでも人間を生きやすいものにしていかなければならない、と井上ひさしは論じている。
これも、じつは、ぼくは、キリスト教の考えと似ていると思う。人間の中には、罪しかない。救いはない。救いは、人間の外からやってくる。人間の手によって作り出される笑いと、神がもたらす救いでは、大違いのように思えるが、人間の中には本来ないものという点では共通している。
扇田さんは、井上さんが「ユートピアというのは『時間』で成立しているんじゃないか」と語ったことにも注目している。これもまた、イエスが「時は満ちた」というときの「時」＝「カイロス」（年代的な均一で平板な時間ではなく、まさにその時、という濃厚な時間）に通じるように思った。キリスト教の礼拝も、非日常的な、あるいは、日常の奥底にあるものを浮かび上がらせる「時間」であるべきか。
井上ひさしさんには、赤坂憲雄さんらと311以前以降の東北を描いてほしかったし、池澤夏樹さんらと311文学を展開してほしかったし、聖書論も劇や小説で展開してほしかったが、井上ひさしさんという山脈を掘り起こせば、じつはそこにある、という思いを強くした。
