109 「この世は神がご自身を表す場、人はそれに感謝をささげる存在」

「世のいのちのために 正教会サクラメントと信仰」(アレクサンドル・シュメーマン、2003年、新教出版社

 著者によれば、次のような考え方はキリスト教的ではありません。

・・・この世は物質からできているから、霊的な世界、神の国に劣る・・・
・・・この世は、天国にいくまでの仮住まいであり、人間にとっての本来的な場ではない・・・

 ならば、ここはどういうところなのでしょうか。著者は、「神学」的考察というよりは、正教会の礼拝に場を持つ正教会の「信仰」の立場から、それを言い表しています。

 著者によれば、人が神を知り、人が「神との交わり」をこそ自分の「いのち」とするために、神はこの世を人に贈りました。

 そして、この贈り主なる神に感謝をささげる、これが人間のあり方の目標であり完成です。しかし、「完全な人」はキリストご自身だけであり、キリストだけが「この世」であるわたしたちがささげる感謝なのです。つまり、贈り物もそれへの応答品も、神によって備えられているのです。

 正教会の洗礼は、「個人」の人生の一幕にとどまりません。洗礼の「水」は「世界」を指し示しています。「水」の前に立つとき、人は、神が与えてくださった創造世界、創造物すべての前に立つのであり、それへの感謝を促されるのです。洗礼は宇宙的な出来事なのです。

 では、「世のいのち」とは何のことでしょうか。それはまさにキリストです。キリストは(「来世」のみならず)(この)「世」のいのちなのです。

 わたしたちは、キリストがいのちとなってくださったこの世を軽視するのではなく、「この世のいっさいを、神の啓示として、神の臨在のしるしとして、キリストの到来の喜びとして、キリストとの交わりへの招きとして、キリストの内に完成される希望として見いだし、この世を生きなければなりません」(p.159)。

 この世は、神さまがご自身をわたしたちに現してくださる手段であり、この世界の万物において神さまはご自身をあらわしておられ、そのようなものとして、この世界をわたしたちにおあたえくださり、わたしたちはその神さまに感謝をささげる=賛美する=礼拝する者として生かされているのです。

 この世界は神さまがわたしたちと出会ってくださる場、わたしたちはそれを賛美し、感謝する者。

 いつもそのように思えなくても、このような信仰の眼差しを心掛ければ、世界が変わって見えるというか、今までわたしたちが思い込んでいたのとは違うまったく違う姿で立ち現れる瞬間に、何度かは、恵まれるのではないでしょうか。

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