58 「レトリックでも思想でもない、死者との対話ストリーム」

「魂にふれる   大震災と、生きている死者」(若松英輔著、トランスビュー、2012年3月5日)

「死者が接近するとき、私たちの魂は悲しみにふるえる。悲しみは、死者が訪れる合図である。それは悲哀の経験だが、私たちに寄り添う死者の実在を知る、慰めの経験でもある」(p.8)

 読み始めてまもなく見つけたこの言葉に、これはあらたなレトリックの創造なのか、それとも、思索ゆえの思想なのか、あるいは、そういうふうにわけられない出来事なのか、と問わずにはいられなかった。

 「死者は、万人の内に共に生きている。死者の姿は見えない。見えないものに出会うことを望むなら、見えないものを大切にしなくてはならない」(p.12)。

 聴覚においても同様であろう。接近してきた死者は、わたしたちに語りかける。祈りとは、願いを解き放つことだけでなく、沈黙のうちに、死者の声を聞くことである、と著者は言う。

 沈黙のうちに語りかける者はひそかにともに歩く者でもある。わたしたちは死者のできなかったこと、死者の残した課題を果たすのではない。「死者は、『課題』のなかで、君たちと共に生きる、ひそやかな同伴者になる」(p.20)。

 最初の十枚余をめくりながら、この人はもしかしたら・・・という想いが生じてきた。

 そこから百枚にわたり、著者は文字通り、死者の声に聴き、対話を重ねる。上原専祿、池田晶子井筒俊彦小林秀雄鈴木大拙西田幾多郎田辺元神谷美恵子。彼らの声は、最初は、当然、活字を通して聞こえてきたに違いないが、文字にとどまるものではなかったであろう。

 著者の妻は逝った。慟哭し、天を糾弾する。「そのとき、心配することは何もない。わたしはここにいる、そう言って」(p.218)彼女が彼を抱きしめた。「誰も自分の悲しみを理解しない、そう思ったとき、あなたの傍らにいて、共に悲しみ、涙するのは死者である」「悲しいのは逝った方ではないだろうか。死者は、いつも生者の傍らにあって、自分のことで涙する姿を見なくてはならない。死者もまた、悲しみのうちに生者を感じている。悲愛とは、こうした二者の間に生まれる協同の営みである」。著者がもっとも深く、長い時間、語り合った死者は妻であり、本書はその対話の果実ではなく、育ちつつある樹木そのものだ。

 著者はカトリック信仰をも持つようだ。けれども、予想があたったとは言えない。むしろ、わたしの信仰にあたらしい恵みが与えられた。キリストとの対話が深められた。

「15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」(コリントの信徒への手紙一)。初穂の声を聴き、つづくいくつもの穂に耳を傾けたい。