B年 ペンテコステ ヨハネ20:19-23

(以下は、ペルーで働く聖コロンバン会神父、ノエル・ケリンズの「福音書のイエスに今日したがう」からの翻訳です。毎日曜日の福音書の箇所へのコメントですので、原則的には、週に一度更新します。)

B年 ペンテコステ  ヨハネ20:19-23

 今日はペンテコステを祝います。イエスは弟子たちに聖霊を送ります。マグダラのマリアに姿を見せたイエスは、つづいて、弟子たちのただなかに現れます。彼らは恐れのあまり、戸を固く閉ざしていたのでした。

 イエスは彼らに二度にわたって、平和の祝福をします。平和、すなわち、聖書のシャロームという言葉には多彩な意味があります。それは、調和であり、姉妹兄弟愛であり、正義の探求です。イエスが弟子たちに二度平和の祝福をしたのは、それを強調するためなのです。同時に、イエスは、弟子たちを、さらには、わたしたちを宣教へと派遣します。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。イエスはひとりぼっちであったことはありません。いつも彼の御父がともにいました。同様に、弟子たちもひとりぼっちになることはありません。イエスは以前、このように確言していました。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」(ヨハネ14:12)。

 イエスは、ご自分の宣教と業を今日実現するために、彼らにともなうことを約束しつつ、弟子たちを世の中へと遣わします。言葉とともに「彼らに息を吹きかけ」(22節)ました。創造の時も、神はいのちを創るために「息を吹き入れられた」(創世記2:7)のでした。

 そして、いまや、あらたな創造がなされています。復活のイエスは、かつてニコデモに示したように(ヨハネ3:3-8)人を新たに生まれさせる聖霊と交流しています。聖霊がイエスの弟子たちの中に、そして、弟子たちとともに現臨する(「聖霊を受けなさい」)のは、イエスについて証をするためです。尊厳のある生、尊重される生をおくる権利を踏みにじられている、神の息子たち、娘たちの尊厳を防衛するように、聖霊はわたしたちを促します。

 「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。

 この節はこの文脈で何を意味するのでしょうか。罪を犯すとは、愛さないということです。つまり、こういう意味でしょう。神の救いはイエスにおいて現れています。それはあらゆる悪に圧倒的に優るものです。復活者イエスは、いつくしみに満ちたこの力のすべてを、十一弟子だけでなく、イエスの弟子すべてに伝えました。ヨハネにとって根本的な罪とは、解放をもたらすロゴスを拒絶することなのです(ヨハネ8:21, 34)。

 イエスを通して神がくださった聖霊の贈り物にしたがって生きることで、悪と闇の力は打ち負かされます。このようなすばらしい日をわたしたちは今日祝うのです。それゆえに、神に感謝をささげましょう。聖霊の贈り物を受け取ろうではありませんか。そして、今日、わたしたちの世界で、イエスを証しようではありませんか。