57 「イエス自身の意図になかったとしても」

「隣人愛のはじまり――聖書学的考察」(辻学著、新教出版社、2010年6月30日)

 歴史学的、文献学的な研究によって、福音書のどの部分が実際のイエスの言動に近いのか、どの部分が福音書記者による編集や脚色なのかが腑分けされるが、それに基づいて、歴史上のイエスの言動としての度合いが高いものを価値あるものとしたり、あるいは、「本当の」キリスト教のあるべき姿だとしたりする場合が少なくないように思う。

 けれども、著者は述べる。「この『隣人』という枠に囚われない隣人愛が実践されるところには、キリスト教が隣人愛を、たとえそれがイエス自身の意図になかったとしても、自分たちの規範としていく積極的な意味が生じる」(p.178)。

 隣人愛の他にも、史的イエスが意図しなかったにもかかわらず、規範やメッセージとして意味ある事柄は、キリスト教の歴史のなかに見出せるのではなかろうか。

 問題は、イエスがあるいはパウロが本当に言ったとか言わなかったとかいうことの他にあるような気がする。ただ、難問は何を意味あるもの、従うべきもの、耳を傾けるべきもの、規範となりうるものとするか、その判断基準だと思う。

 「汝、殺すなかれ」「汝、盗むなかれ」か。人間の精神に普遍的にあるかも知れない良心か。いのちと人格をどこまでも大切にせよとの自然法があるのか。

 イエスが本当に言わなかったにしろ、ある言葉が規範として意味を持ちうるとすれば、それが他者への畏れと喜びに由来するようなものである場合であろう。

 話が逸れた。著者はこの書で、「イエスはあくまで、隣人愛の唱道者ではなく、批判者だった」(p.159)ことから始めて、では、なぜ初期のキリスト教が隣人愛を強調するようになったのか、また、そこにはどのような問題点があるのか、聖書学的にではあるが、この書が対象とする「神学への船出」をしようとする者にわかりやすく、ていねいに、繰り返し説き明かしている。