56 「じっと聞き、ともに怒り、おのれを問う記者たち」

「ふたつの震災 [1・17]の神戸から[3・11]の東北へ」(西岡研介松本創著、講談社、2012年4月19日)

 記者たちは被災地を「歩き」、「縁」が育ち始めた人々の声にじっと耳を傾け、それらの言葉を「愚直に」「紡いで」いる。
 
 ふたりは若くエネルギーあふれていたころ、阪神・淡路大震災を経験し、取材もし、記事も書いてきた。そのふたりが17年後東北を行く。けれども、書名は「ああ、おれたちも大変だったから、よくわかる」ということではない。ふたりは、知らなかったことを知らされ、怒り、また、自分自身に問いかける。神戸と東北、ではなく、神戸から東北へだ。

 「結局のところ、わたしは何も理解してなかったのだ。震災遺族の本当の悲しみというものを」(p.64)。記者は家族を失った者の悲しみが、17年経とうが、「心の底に沈んでいる」ことを思い知らされる。

 「仮にも記者やってんのに無関心やったんやから、一般の都民より罪は重いわな・・・・・・」(p.129)。元福島県知事の佐藤栄佐久氏の言葉に体現していた、中央・東京に対する「福島の怒り」、そして、鋭くかつまっとうな批判を聞き、記者は帰りの新幹線の中で「俺も震災前までは『電源立地県の福島に無関心な東京都民』の一人やったやないか・・・・・・」(同)と自責の念に襲われる。

 「私も思わず笑ってしまったのだが、しばらくして『いや・・・・・』と考え直した」(p.134)。どこまでも、自分を問い続ける記者。自分の住む町の近くの原発さえ安心なら大丈夫と思い込んでいる人の発言を聞き、まわりにつられて笑ってしまったが、記者は考え直す。「自らに都合よく思い込んでいるという点においては、私も彼女と何ら変わりはない」「自分にそう思い込ませないと生活ができない、生きてはいけない」(p.135)。記者の言葉は読者にも再考を迫る。

 「ふたつの震災はまるで別物であると、私たちは理解しているつもりだった。だが、山浦氏が突き付けてきたのは」「神戸や阪神間三陸沿岸部の、日本という国の中における位置づけ、歩んできた歴史の違いである」(p.156)。違うとわかっていたところに、さらにそれも違うと追い打ちをかけられても、記者たちは逃げず、聞き、問いかけを正面から受け続けた。

 「東北からさまざまなものを奪い、服従させ、屈辱を強いてきた側に私たちがいるならば、せめてその歴史を知り、痛みを想像することを怠ってはならないと思う」「山浦氏が教えてくれたケセン語に『ツミヅミシイ』という言葉があった」「被災地を歩き、東北を知るほどに、私たちは心のどこかでツミヅミシイ思いに駆られる」(p.184)。

 17年前よりもう少し前、本多勝一の「殺される側の論理」を語り合い、在日韓国人女性に指摘された自分の差別性を必死に受け止めようとし合った時期があった。だからと言って、何かを知っているわけではない。知っているつもりの今日から、知らなかったことを知らされる明日へ、歩き続ける者たち、それが友だ。