(25) 「人格は別々でも、あるこころざしではひとつになることがあります」

父親は、足は遅く、持久力も筋力もないのに、子どもたちは、百メートルでも、1500メートルでも、クラスで片手に入るくらいの運動能力に恵まれています。父親は、部活を続けたことなどないのに、子どもたちは、入学時から最終学年まで、やり抜いています。

いったい、誰に似たのでしょうか。母親は小学生のころは足が速かったそうです。母親は見るだけですが、母子ともにサッカー好きで、Jリーグや代表戦や子どもたちの試合の話で良く盛り上がっています。そんなとき父親は一歩下がって聞いています。

子どもたちには、父親とも母親とも違う、さまざまな個性があることでしょう。似たようなところがあるように見えても、基本的には、親子は別々の道を歩みます。親は子どもに、この学校に行ってほしい、こういう仕事に就いてほしい、などとは思わない方がよいでしょう。

けれども、差別、権力者や支配者の横暴、戦争には反対し、それによって苦しめられる人びとの声に耳を傾ける、そのような心は持ってほしいと願います。他者や自分の人生や生活や生命、英語で一言で言えば、life、ライフを大事にする心は、親子で共有したいと祈っています。

聖書によりますと、神とイエスは父子関係にあり、イエスは神の心を行おうとする、とあります。また、イエスのしていることによって、イエスが神に遣わされた者であることがわかると言います。

キリスト教は、イエスはキリスト(救い主)であり、神の子であると言います。けれども、それは生物学的、遺伝子的、あるいは、家制度的な親子関係ではなさそうです。神はイエスを通して、自分の存在や意志や、わたしたちへの愛や救いを示す。わたしたちは、そのイエスを通して、神の背中を垣間見る。そのような関係を、親子にたとえているのかも知れません。