誤読645「差別認識・克服のために言葉をていねいに紡ぐこと」・・・「クィア神学の挑戦 クィア、フェミニズム、キリスト教」(工藤万里江、新教出版社、2022年)

 世界では、人が人を支配する、抑圧する、差別する、殺す、踏みにじっています。そして、この不正義に、キリスト教キリスト教会も加担しています。

 

 この指摘に対して、「キリスト教を『正しく』理解すればそれを乗り越えられる」とか「キリスト教は本来そのような不正義を乗り越えた世界観、人間観を持っている」といった反応があります。

 

 それに対して、本著のメインゲストであるアルトハウス=リードさんは、「いや、キリスト教そのものに不正義がある。キリスト教そのものを解体しなくてはならない」と言っているように、わたしは思いました。

 

 本書では、ホストの工藤さんは、メインゲストの思想をよりよく伝えるために、スタジオに、ヘイワードさんとスチュアートさんも招いています。

 

 ヘイワードさん、スチュアートさんの考えも、ひじょうに斬新で魅力的であり、著者はそれをみごとに引き出しています。同時に、その中にある問題点、批判すべき点も指摘し、メインゲストの思想の中に、その克服の糸口を見いだそうとしています。

 

 「アルトハウス=リードの特徴は何よりも、『クィア』な視座が直接的に性にまつわる事柄のみを扱うものではなく、ポストコロニアルな課題とも深く絡み合うものであることを明らかにしたところにある」(p.15)。

 

 「ポストコロニアルな課題」つまり植民地支配にも顕著な「支配する者―される者」とい上下権力を指摘し克服しようとする課題意識は、著者にも明白であり、おおいに共感します。

 

 著者は、「筆者自身は『クィア』という言葉を、強制的異性愛と家父長制に支えられた社会(キリスト教会も含む)構造の中で『逸脱』とされる側から、そうした既存の権力構造を徹底して批判的かつ反同化主義的に問う姿勢として用いたいと考えている」(p.24)と明記しています。

 

 「『クィア』な抵抗運動としてもっとも念頭におくべき差異は『規範的』とされる性のあり方を持つ人々と、『非規範的』とされる性のあり方を持つ人々との間の圧倒的な差異である。ここでいう差異とは、決して並列に扱いうる対等な差異ではなく、圧倒的に不平等な位置のことだ」(p.25)。

 

 アルトハウス=リードに戻りましょう。「アルトハウス=リードは、いわゆる『ポスト・クリスチャン』たちと自分たちが同じ挑戦をしていると考えており、その挑戦とは、既存のキリスト教/神学の『放棄』なのだという。」(p.217)。

 

 この挑戦は、まさに、「クィア神学の挑戦」という本書の題の中身でもありましょう。

 

 それはまさに「挑戦的」です。「イエス・キリストの唯一性を認めない(キリスト論をイエス個人ではない共同体の対話プロセスに位置づける)、『聖書の系図に属さない』神を探し求める、そして聖書に特別な権威を認めない(「私たちはイエスの人生を読む時、殺された同性愛者の人々についてのタブロイド紙の記事を読むのと同じ目線で読まなければならない」)といったアルトハウス=リードの姿勢」(p.218)。

 

「アルトハウス=リードが試みるのは、神学のスタイルや論理といった『地図』を持たない旅であり、『秩序の放棄』である。それは既存の『神語り』のモデルに従わず、また神やキリストに『正しさ』や『絶対性』を求めるのでもなく、暫定的かつ情熱的に神を語り続けること、それについての対話を続けていくことを意味する」(p.220)。まさに挑戦的な挑戦です。

 

 では、アルトハウス=リードはどのようなものを目指しているのでしょうか。「アルトハウス=リードは性的アイデンティティに基づく連帯も、『キリスト者アイデンティティに基づく連帯のいずれも求めない。むしろ彼女が求めるのは『見知らぬ者同士のコミュニティ』であり、決して固定されない形での『ゆるい同盟』なのである。」(p.276)。

 

 しかし、アルトハウス=リードがここで意図していることは、たとえば、ゲイと呼ばれる人びとの中でも、ひとりひとりの苦しみは人それぞれであり、ひとまとめにすることができないし、ひとまとめにすると抑圧されてしまうものがある、ということではないでしょうか。

 これについて、著者は堀江有里を引き合いに出しています。「堀江は『同性愛/異性愛』『女性/男性』といった二項対立をはじめとするさまざまなアイデンティティ・カテゴリーが『社会的に構築されたフィクション』であることは当然の前提としながら、しかしなおそれがこの社会の中で強固な規範として作用し続けている現実においては、一足飛びにそれらを意味のないものとして退けてしまうのではなく、あえてそこに留まり、その『網の目をつぶさに読み解く』ことによってそうした規範の暴力性、さらにその『ほころびや裂け目』を明らかにしようとする。そのために堀江は、ひとつのカテゴリーとしてその中に同質化される危険もある『レズビアン』というアイデンティティをあくまで暫定的に引き受けるのである。」(p.278)。

 この堀江の「暫定的」姿勢は、アルトハウス=リードの言う「ゆるい同盟」とつながるのではないでしょうか。

 

 アルトハウス=リードにもう一度戻りますと、「彼女の神学の特徴は、神や神学の特徴は、神やキリスト、あるいは教義や伝統的な実践から『従うべき規範』あるいは『倣うべき規範』といったものを読み取らないところにある」(p.283)、「彼女は、キリスト教異性愛主義を問うことはその表面的な性規範のみを問うことではなく、キリスト教の観念的な構築や規範性自体を問うことであり、また帝国主義グローバル資本主義の搾取構造を問うことであると論じ、その姿勢を徹底させる『下品な神学』を提起した。」(p.284)。

 聖書を反差別の規範にさえしないと言うのです。規範にすれば、それは、また差別を生み出すからではないでしょうか。差別的な規範があるのではなく、規範を置くことが差別だと言うのです。また、規範を問うことは、資本主義の搾取を問うことだと言うのです。

 

 本書では、螺旋階段のようにこの三人の考えが循環、上昇していて、ひじょうにわかりやすいです。記述、論述は、斧で切り裂くようなものではなく、むしろ、何かを簡単に切り捨てず、それぞれの長所、短所、両義的な点などが、ていねいに述べられています。

 

 わたしはかつて、解放の神学についての卒業レポートを書いたとき、解放の神学は神学の解放であり、このレポートはレポートの解放である、と記したことがあります。本書でも、クィア神学は、神学のクィア化につながることが述べられています。

 

 では、本書自身はどうでしょうか。本書は博士論文を加筆修正したものだといいますが、論文のクィア化となっているでしょうか。

 

 「アルトハウス=リードの思想を既存のアカデミックなスタイルで分析・展開しようとしている本書もこうした批判の対象となる」(p.239)と著者は述べており、他所にも、著者の自省は見られます。たとえば、「クィア神学を学ぶ中で絶えず胸に棘として刺さっている自身の特権的な立ち位置・・・筆者自身はシスジェンダー異性愛者であり、また贅沢なほど教育を受ける機会に恵まれた中流階級の人間であり、さらに日本国籍を持った『日本人』として本土に生きている・・・筆者自身は、性的指向を理由とした差別を受けた経験もないどころか、異性愛カップルのみに許された婚姻制度の恩恵まで受けている。さらに筆者はこれまでいわゆる現場の『運動』にはほとんど参与しておらず・・・」(p.294)という非常に誠実な告白です。筆者のこの自省は、論文のクィア化とまでは言えなくても、そこから遠くない印象を与えます。

 差別はなかなか認識されません。ましてや、克服されません。しかし、ていねいに言語化され、それとともに実践されることで、あきらかになってくることがある、と本書を読んで再確認しました。

 

 伝わらない、理解されない、だからこそ、言葉を丁寧に紡ぐ道も、差別の認識と克服に向けての選択肢となることを教えてもらいました。

 

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