50 「〈大震災に負けない日本人の勇気〉をオウム返しに言うより」

「瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ」(辺見庸NHK出版、740円、2012年1月10日)

 「あの人は良い人だった」「あの人も幸せだったんじゃないの」「良い人生だった」「苦しまなくて良かった」「苦しんだけれども良くがんばった」「今ごろは苦しみのないところで安らかにしているだろう」

 わたしたちは死者について簡単にまとめてしまおうとしまいます。それはあたかも死者との縁を切るための整理をしているかのようです。

 しかし、本人は良い人生だったと思っていたのか、あるいは、本人がそう思わなくても多くの人が横からそう評価するような人生であったのか、苦しんだのか、何をどんなふうに苦しんだのか、苦しまなかったのか、がんばったのか、がんばれない辛さを味わっていなかったのか、がんばらなかったのか、こういうことを軽々に判断してはなりません。

 本人だけにわかることです。いや本人にさえわからないことかも知れません。ならば、わたしたちが自分の安堵のために、何かを終わらせるために、そういうことを語るべきではないのです。

 わたしたちは考え抜く、いや、考え抜けなくても、考え続ける、いや、せめて、考えをまとめたり、まとめの言葉を言ったりすべきでないのです。そうやって、考え続けることによってのみ、死者はわたしの物ではなく者で在り続けるのではないでしょうか。

 本書は、石巻出身の著者が、3・11以前の思索をも土台の一部としながらも、3・11以後の風景を深く見つめ、日本社会でこの間、発せられてきた「言葉」の虚無性を暴きつつ、著者自身、言葉が出る/出ない、出す/出さないのぎりぎりのせめぎ合いの中から搾り出した一冊だと思います。

 著者は「橋 ― あとがきの代わりに」で、本書のテーマは「言葉と言葉との間に屍がある」と「人間存在というものの根源的な無責任さ」であると述べています。

 「言葉と言葉との間に屍がある」とは、どういう意味でしょうか。

 「意をもちいずに使い棄てたり、使っておきながら、すっかり忘れ去ったりした言葉たちの間に、いつのまにか、死体がはさまっている。・・・・戦争もファシズムも、もろもろの革命も、言葉と言葉との間に屍を生むものではないのか」(p.166)。
 
 では、言葉はどのように発するべきなのでしょうか。
 
 「いま語りうる言葉をなぞり、くりかえし、みんなで唱和することではなく、いま語り得ない言葉を、混沌と苦悩のなかから掬い、それらの言葉に息を吹きかけて命をあたえて、他者の沈黙にむけて送りとどけること」(p.21)。

 「死者に対する敬意とは、人のモノ化とはどういうことか、この死の虚しさと、かぎりない暴力、破壊が、なにからもたらされているのか ― それらを考える手がかりを、風景を正視してわれわれがつかむことではないのでしょうか。そして、言葉でそれを表現すること、これが死者への敬意と悼みにつながるのではないか。言葉は人のモノ化への抵抗でもあります」(p.59)。

 もう一つのテーマ、「人間存在というものの根源的な無責任さ」とはどういうことでしょうか。

 「〈大震災に負けない日本人の勇気〉をオウム返しに言うより、「人間存在というものの根源的な無責任さ」について考えてみるほうが、わたしの性にあっている」(p.175)。

 著者は、関東大震災を見て折口信夫が「ああ愉快と、言ってのけようか。一挙になくなっちまった」(著者による引用は旧かなづかい。旧漢字)」と詩にしたことや、東京大空襲について堀田善衛が「階級制度もまた焼け落ちて平べったくなる」(・・・この言葉は赤木智弘の「希望は戦争」の真意を思い出させる・・・)と述べたことを挙げ、これらの表現には「完膚なきまでに壊された人と社会のその先に、いったいなにが誕生してくるのか見てみたいものだという、各人にあいつうじる希望、内面のつよさや不思議な明るさ、もっと言えば、“ふとどきで不謹慎な明るさ”を感じます。ふとどきで不謹慎な言葉というのは、そうではない襟を正した言葉よりも、ときとして逆説的な明るさを醸し、人に救いを感じさせたりするものです」(p.181)とまとめています。

 「がんばろう日本」というような常套句や(本来は新鮮であったであろう)「〈思いやり〉は誰にでも見える」という言葉の連呼からは「屍」が増すばかりであり、むしろ、奇妙な自制のない「ふとどきで不謹慎な言葉」の方が救いがあると言うのです。

 けれども、それは石原慎太郎の「天罰」発言とはまったく異なるものでありましょう。石原は「完膚なきまでに壊された人」ではないからです。完膚なきまでに壊された人が、言葉さえも完膚なきまでに壊されて、完膚なきまでに壊された野にたたずむ時、そして、奇妙な心の戒厳令を敷いたり、常套句をオウム返しにしたりしない時、あらゆる言葉を捨てた時、意外にも、「ふとどきで不謹慎な言葉」があっけらかんと出てきて、そこに力があるのではないでしょうか。

 著者は宮澤賢治石原吉郎原民喜らとの対話も思索の土台としています。