誤読ノート487 「自死者は犯罪者ではない」・・・「『こころ』異聞 書かれなかった遺言」(2019年、若松英輔、岩波書店)

  「自死を『選択』したのではない。その他に道がなかった、というのである」(p.228)。「先生」の手紙を、若松さんはこのように読む。

 自死を選択しようとする人がいれば、止めなければならない。しかし、なされた自死は、文字としては矛盾するが、自ら死んだのではなく、自らを越えた道だったのだ。道によって前に進むことは、罪ではない。

 「K」の死について、著者はこう述べる。「失恋と友情の崩壊を経て彼は、多層的な絶望のなかで、常人がかいま見ることのない、存在の深層にふれたのかもしれない。その死は、実存の割れ目から湧出する熾烈な出来事に、彼の心身が耐えられなかったゆえの帰結だったのかもしれないのである」(p.219)。

 「存在の深層」「実存の割れ目から湧出する熾烈な出来事」は「彼の心身が耐えられ」ないほどのものであったが、それは、どうじに、「失恋と友情の崩壊を」「経て」、あるいは「多層的な絶望の」「なかで」で触れられたものであった。つまり、「崩壊」や「絶望」にもかかわらず、それを乗り越える、それとは異質のものではなかろうか。「こころ」とはこれの異名ではなかろうか。

 十代の中ごろに「こころ」を初めて読んだ若松さんは、「把握できていない意味の原野を前に茫然」(p.236)とし、「書物とは、言語によって言語では表現できないものを読み手の心に届けようとする営み」(p.237)であることをほんの少しではあるが理解したと述べている。

 

 「把握できていない意味の原野」、「言語では表現できないもの」も、また、「こころ」の同義語であろう。本書はこの同義語に満ちている。言葉で表現できないものには、同義語、類語で近づくしかない。

 

 「この小説の主人公は『私』でも『先生』でもなく、『こころ』と呼ばれる得体のしれない何ものかであるとさえ、いい得る」(p.11)。

 「師の心にふれることで弟子は、自らの内に心と呼ぶべき情動の源泉が存在していることを知るのである」(p.34)。


 「『わたし』は『先生』と出会うことによって、自分のなかに特定の宗派に属する『信仰』とは異なる、しかし、人生観の深みから湧き出るような働きが生まれているのを実感している」(p.80)。

 

 「こころ」の道の師弟である。「先生」と「私」だけでなく、「K」と「先生」、「私」と読者も、そうだ。

 「生者の心の準備さえ整えば、死者と心を通わせることができる。それは『先生』の死生観の根底を流れるものだったといってよい」(p.126)。

 「カトリックでは『聖徒の交わり』を重んじる。死者となった聖人は「生きて」いる、と考える。聖人および死者との交わりは今も、カトリックの重要な教義の一つになっている」(p.163)。

 「存在の深層」を予感し、手を伸ばす者たちは、死者も生者も、まさに「存在の深層」または「こころ」において、互いに親しく交わる。眉唾の超常現象ではなく、本来の哲学の話をしている。

 死者は犯罪者ではない。生きた聖人、「こころ」に触れた人々だ。

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