[聖書の話を身近な経験に置き替えてみました」(11) 「ピンチのとき天国の母がそばにいてくれる」

 「死んだ人が生き返って、自分のところにやってきた。死んだ人が幽霊になって、どこそこに現れた」と聞いて、そんなことがあるはずがない、何をおかしなことを言っているのだ、と思う人でも、「死んだ人が天国から見守っていてくれる」と言う人を馬鹿にはしないでしょう。

 春の高校野球。大震災で母親を亡くしたエースが「母がいてくれたから今の自分があるし、ピンチのときもいつも母がそばにいてくれると思うので、不安はありませんでした」と語るのを聞いて、多くの人は、ほんとうにそうだな、とうなずくことでしょう。

 死者が現われるという話は奇妙に思えても、死者がいつもそばにいてくれるという想いは、じつは、わたしたちは大切にしてきました。

 昔、遠方の友人が亡くなりました。そこに駆けつけ、ご遺体にも面会し、葬式にも出ましたが、そこから帰って来ると、友人はいまでもそこに生きつづけているのではないかと思えてなりませんでした。亡くなったと聞かなければ、大事な友人がそこにいるという感覚はまったく変わらなかったことでしょう。

 遠方の友人の中には、もう二度と会えない人が何人もいます。その中には、じつは、もう帰天している人もいるかも知れませんが、それを知らなければ、わたしたちは、その人がそこに生きているし、自分とつながっていると信じているのです。

 死者とつながる、死者と出会う、死者とともにいるということは、じつは、そんなに変なことでも、ありえないことでもありません。

 たとえば、音楽を聴くとき、作曲家、作詞家、演奏家は、もうこの世の人ではなくても、わたしたちはこの人びとと心がふれあい、揺さぶられるような体験をし、その人びとを愛おしむのではないでしょうか。本田美奈子さんは若して亡くなられましたが、彼女の歌を聴くと、いまでもここにいて彼女の心のすべてを込めて歌いかけてくれているように感じます。

 本を読むとき、わたしたちは著者、作者と同じ時間を同じ空間で過ごすのではないでしょうか。そこでは、たましいが触れあうのではないでしょうか。亡くなった家族や友人との出来事や言葉や顔を思い出すとき、ただなつかしいだけでなく、今その人がここにいることをまざまざと感じることがあるのではないでしょうか。

 聖書によりますと、イエスは死んで、墓に葬られました。横穴式の墓は大きな石で塞がれました。そこに封じ込められてしまい、もう二度と会えない、永久の別れのように思えてしまいました。

 けれども、「マグダラのマリア」という女性は、イエスが「マリア」と呼びかけてくれる声を聞き、「先生!」と答えたのです。

 「天国のお母さんが、ぼくの名前を呼んでくれた」という経験と、まったく同じではなくても、たしかに大きく重なりあう部分があると思います。