49 「根本的には他者によって開かれる自己認識」

「信仰と経験 イエスと〈神の王国〉の福音」(廣石望、新教出版社、2700円、2011年11月30日)

 講演を収録したものとのことですが、かなり難しい本でした。

 たとえば、「イエス・キリストとは、わたしの人生に外側から与えられるリアリティであると同時に、信仰者としてのわたしの内在的なパースペクティヴにおいてのみ開示されるのです。福音書記者が〈福音書のイエス〉という解釈学的な存在者を創作することを通して、〈史的イエス〉と〈復活者イエス〉という、共に福音書の外側にいる存在の人格的な同一性を指し示しているという事態は、まさにそのような神および自己認識を反映しているように思われます。」(p.49)とあります。

 これは、普通に言うと、どういうことでしょうか。福音書に登場するイエスは、実際に生きていたイエスとは違います。なぜなら、福音書は、イエスが復活したという観点から書かれているからです。実際に生きていたイエスの姿の上に、「この人はじつは復活するのだ」という思いが重ねられて記述されているので、実際に生きていたイエスとは異なるのです。

 福音書に登場するイエスは、復活したイエスとも違います。なぜなら、福音書が書かれた後も、イエスの復活は多くの人びとによって体験されているからです。そうしたイエスの姿は福音書に書き切れません。

 つまり、実際に生きていたイエスも、復活したイエスも、福音書に書かれたイエスの枠の外にいるのです。ところが、福音書に書かれたイエスは、実際に生きていたイエスが復活したイエスと同じ方であることを示す橋渡しをしているということもできます。

 神さまはわたしたちの外におられる方です。イエスもわたしたちの心の産物ではなく、わたしたちの外にたしかにおられる方です。史的イエス、実際に生きていたイエスは、わたしたちの外にいるのです。また、復活したイエスもわたしたちの外から問いかけてくるのでしょう。

 しかし、復活したイエスとわたしたちの出会いは、わたしたちの中にある信仰という見方においてなりたつのです。復活を客観的な外的事実とだけ主張しても、それは奇術に過ぎません。復活はわたしたちの内側において示されることなのです。

 福音書は、史的イエスと復活のイエスには同一性がある、つまりあの時ああやって生きていたイエスが今目の前にいる復活のイエスなのだ、ということがわたしたちの中で示されるためのガイドということができるかも知れません。

 以上は「復活者キリストの宣教命令」を読みながら記しました。

 本書の二番目の章「〈神の王国〉と歴史」にも、興味深いことが書かれています。「第二にイエスは、人間の行動に先立つ神の現実が、自分と他者の関係を根本的に規定すると考えています。ここから開けてくるのは、人間の行動は、理想社会の実現に向けて自ら設定した実践規則ではなく、むしろ神が人に無条件に与える尊厳にこそ対応すべきなのではないか、という洞察です。・・・・・・しかし自分で定めた目標にむかって行動することで自己実現をはかるのでなく、むしろ信仰による自己認識に導かれつつ行動するためには、並外れて大きな受容性と繊細な感受性が必要です。しかもそれは、根本的には他者によって開かれる自己認識です。このような認識が養われる場こそ「福音」であり、そのプロセスが「信仰」であると考えてよいのではないでしょうか。「福音にあって信じよ」(マコ一・一五)とは、そのことを指しているようにように思われます。」(p.87)。

 これを通訳しますと、わたしたちは自分がこの人にしたい、こうするのが良いと思うことをするというよりも、まずは、「この人には神さまから与えられた尊厳がある、しかも、それは偉いことをしたご褒美のようなものではなく、この人がいのちを与えられる、最初の時から、この人にそなえられているものだ」ということを良く受け止めて、これを土台として、また、これに応えるという思いで、他の人との関係を作るべきです、ということになるでしょうか。

 自分の思いで行動する「自己実現」よりも、自分にも他の人にも神から無条件に尊厳が与えられているという「自己認識」の方が大切なのです。しかも、この「自己認識」は自分で認識するのではなく、自分の外にいる他者、つまり、神、他の人(との出会い)を繊細な感覚で受け入れることによって示されるものなのです。

 このように、他者によってこのような自己認識が与えられる場所が福音であって、「福音にあって信じよ」(新共同訳では「福音を信じなさい」とあり「福音」が目的語になっているが、ギリシア語に忠実に訳すと「福音の中で信じなさい」となり「福音」は場所と理解される)とは、他者によって開かれるような場(=福音)の中で、神から無償で尊厳を与えられている自分と他者という自己認識を持ちなさい(=信仰)、ということなのです(で、良いのでしょうか?)。

 それから、「福音書―文化の中の福音」という章では、キリスト教ユダヤ教ローマ帝国社会のさまざまな概念を鋳造し直して援用していること、つまり既存の文化にあらたな意味を吹き込んだことが述べられています。たとえば、「福音」はローマの新皇帝の輝かしい登場の知らせのことでしたが、原始キリスト教はそれをイエスの生と十字架の死と復活を示す語に変わったのです。

また、「人とメタファーの言語」という章では、イエスの譬えやヨハネ福音書パウロ書簡などがメタファー(隠喩=比喩の一種、まったく関係のなさそうな二つのものを結びつけて意味を生み出す。「きみは太陽だ」など。)によって、言葉に新しい意味を与えていることを、そして、現代社会では「神」「愛」という言葉が濫用されているが、それがあらたなものと結びつけられることで、意味と輝きがとりもどされるのではないか、ということが述べられています。

ぼくは一度読んでいろいろわからず、二度目は線を引いたところだけ読んでそれでもわからず、三度目は付箋をつけたところだけ見てこれを書きましたが、誤読の極みのような気がします。

 けれども、読める人にはとても意味ある本だと思います。