29 「キリストは星の王子さまのよう」

 「星の王子さま」(サンテグジュペリ池澤夏樹・新訳)
 「星の王子さま」(サン=テグジュペリ、稲垣直樹訳)
 「星の王子さま」(サン=テグジュペリ、河野万里子訳)
 「星の王子さま」(ジョアン・スファール、池澤夏樹訳、サン=テグジュペリ原作のコミック)
 「『星の王子さま』物語」(稲垣直樹)
 「大切なものは目に見えない―『星の王子さま』を読む―」(宮田光雄)

 最初に読んだのは河野訳でした。もしかしたら、子どものころ、家にあった内藤濯訳をめくったことがあるかも知れませんが、覚えていません。河野訳は、新聞広告を見て「ああ、星の王子さま、一度ちゃんと読んでみよう」ということで入手しました。

 つづいて、コミックが池澤夏樹訳で出たので、前回あまりよくわからなかったこの作品w楽に再読しようということで読みました。池澤夏樹はこれ以前にもこのコミック訳とは違う訳を出していることを知り、これも読みました。

 このあたりで、どうも星の王子さまは聖書っぽいなあという思いが強まり、何か解説本をと思っていたら、ちょうど稲垣直樹の本が出たので読みましたが、そのことには触れていませんでした。けれども、サン=テグジュペリの背景とか、いくつかの場面や言葉の解題とか、なかなかおもしろかったです。翻訳の問題も興味深く語られていたので、それにつられて、稲垣訳も読みました。

 原本は同じでも、訳ごとに新鮮に読めました。おおまかなストーリーは読みながら思い出せますが、この本には会話劇のようなところがあり、そこで語られている意味深なセリフは毎回、初めて読むように感じました。

 さて、どの辺が聖書っぽいかというと、たとえば、王子さまが蛇に足首を噛まれたと思わせる描写があるのですが、これは創世記で神が蛇に言った「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(3:15)をすぐに連想させます。

 それから、支配したがる王様、自慢したがるうぬぼれ屋とか、知識だけの地理学者なども、福音書が描くファリサイ派や律法学者の姿を思わせます。

 池澤夏樹も「天から降りてきて、自分自身も傷つきながらモラルに関わるメッセージを人間に伝えてまた天に帰るという行動のパターンにおいて、『王子さま』はイエス・キリストに似ている」(p.140)と記しています。

 宮田光雄先生も「疑いもなく、夜や砂漠、渇きや泉など『星の王子さま』に出てくるさまざまの象徴は、サン=テグジュペリの生い立ちに影響をあたえたキリスト教的背景なしには理解できない」(p.36)としています。

 あと、砂漠で王子さまの頭上に星がひとつ光るところや、飛行士をおいてひとり蛇のもとに向かうところなども聖書からのモチーフのように思えます。

 他にも皆さん、いろいろ感じておられるのではないでしょうか。

 王子さまが砂漠に倒れるところは、ナルニア国物語の「ライオンと魔女」でアスランが魔女の手にかけられる場面とならぶ名場面だと思いました。

 ただ、魔女にやられる場面のアスランというキャラクターにはキリストの十字架の意味を伝えようとする意図があるようですが、星の王子さまは、キリストを伝えるための手段ではなく、サン=テグジュペリにとっては、キリストはまさに星の王子さまのような存在だったのではないかと思いました。

つまり、星の王子さまがキリストのようなのではなく、あるいは、星の王子さまを理解するための原型がキリストなのではなく、キリストが星の王子さまのようであり、星の王子さまがキリストを理解する枠組みではないかと思ったのです。

 言いかえますと、星の王子さまをキリストのイメージで読むだけでなく、キリストを星の王子さまのイメージで読む方向もあり、サン=テグジュペリ自身がまさにこの視線ではなかったかと思うのです。キリストを知っていたから星の王子さまを理解できたのではなく、星の王子さまを知っていたからキリストを理解できた、そういうことも十分にありうるでしょう。