詩は青年のものだろうか。数十年遅れ、五十代半ばにして、ようやくリルケやランボウを寝しなに読み始めたぼくは、詩には難しいものがあると痛感し、それはやめて、わかりやすいものだけにしようかと迷っていた。
池澤さんの小説やエッセイは、ぼくには心地良く、これまでもいくつか読んできた。これからもそうするだろう。その池澤さんが「図書」に連載した、詩についての33編のエッセイ。その名も「詩のなぐさめ」。詩に苦痛を覚え始めていたぼくは、読まずにはいられなかった。
ヨーロッパ、中国、ギリシャ、ローマ、日本、奄美、ロシアなど。いろいろな土地のさまざまな時代の詩が紹介されている。詩の読本だけでなく、目録にもなっているのだ。
頁をめくったとたんに、約束通り、なぐさめられた。「詩はこの憂き世を生きてゆく上でずいぶん役に立つもの」「詩は今いるところであなたの心に作用する。知性に働きかけ、感情によりそい、あなたは独りではないとそっと伝えてくれる」(p.2)。
つづいて、勇気がわく技も伝えられた。「詩はそっけない・・・・・はじめは少しは努力してこちらから近づくようにしなければならない・・・・・詩は少ない言葉で多くのことを伝える技術である・・・・・圧縮が掛けてある。解凍しなければならないわけだが、その方法は簡単。一度で済ませるのではなく、二度か三度か読めばいいのだ」(p.4)。
三度読んでわからなくても、落胆することはない。「それでびんびん響いてこない詩はたぶん今のあなたには向かないから、ひとまず捨てて別の詩の方へ行った方がいい。もっとも世の中には非常に高度の圧縮が掛けてあって、解凍の過程そのものが楽しみという詩もある」(p.5)。
こうして始まるこの書では、もっと読みこみたいと思わせる詩が、部分的なものも含めると、百は案内されているのではなかろうか。
たとえば、「のっぽで、/助平な笑い話みたいなやつだと、/今日の種族にあざ笑われる/このぼくには、/だれにも見えない「時」が、/山を越えてくる、その姿が見える。」
これはロシアの詩人、マヤコフスキー。「革命期のロシアの若い詩人はスターだった。三十六才で亡くなった時、葬儀には数万人が参列した。早い話が彼はジョン・レノンだった」と池澤さんは評したうえで、こうつづける。「詩は朗誦されるものであり共有されるものだ。ヘイト・スピーチの醜悪なメッセージを「短く断ち切る」ものだ」(p.209)。
「春の星こんなに人が死んだのか」。3・11の死者を、こんなにも痛ましく、こんなにも美しく詠った言葉をぼくは知らない。照井翠さんの句。「もう何処に立ちても見ゆる春の海」。大自然の災害に遭遇した人と町が、まさに、大自然界のスケールで、悼まれ、愛しまれる。読者は、悲しみ、同時に、慈しまれる。
いまは難しいと感じる詩にも、なぐさめを覚える日が来るのではないかという希望が与えられた。