「宗教改革2.0へ ハタから見えるキリスト教会のマルとバツ」(松谷信司編著、「ころから」発行、2018年)
池澤夏樹、阿刀田高、高橋哲哉、辛淑玉、安彦良和、里中満智子、酒井美紀、塚本晋也、内田樹、釈徹宗ら、教会の「ハタ」の人びとが交代で登場する13編のインタビュー&対談集。
そして、晴佐久昌英神父と宮台真司の、まさに「神」対談。短いですが、宗教の本質と世界での役割が凝縮されて語られている保存版です。
両親が熱心なクリスチャンである編者いわく「他人から指摘してもらわなければ気付けないことばかり」(p.197)。たしかに、同じくキリスト教にどっぷりつかって半世紀以上を過ごし、牧師生活も四半世紀経験してきたぼくにも、ああ、こういうふうな見方、考え方もあるのだ、とかなり新鮮でした。
「『信じるつもりはないが知りたい』という需要」(p.8)。ああ、そういう需要があったのですね。ならば、ぼくも教会もそれに応えたいと思います。
「信仰には二つの側面があって、一つは『あなたはそのままでいい』という完全なる受容の面と、もう一方で『おまえはそのままでいいのか』という問いの面」(p.31、奥田知志)。「福音と律法」あるいは「福音と世界」という神学用語を普通の日本語に訳すとこうなります。
「人に届く言葉でなければいけません。学者の言葉というのは、多くの人にそんなに届きませんから(笑)、信仰者の言葉のほうが訴える力はあるんじゃないかと思います」(p.82、高橋哲哉)。そう言っていただいてありがたいのですが、ふと、ぼくは三流の学者の言葉になってないか、信仰者の言葉になっているか、反省させられました。
「牧師に必要なのは自分ががんばることではなく、マネジメント能力、説明できる能力を身につけて、ビジョンを示して人々をつないでいくこと。牧師ひとりの生産性なんか、たかが知れてます」(p.94、辛淑玉)。管理ではなくマネジメント。旧約聖書で言えば羊飼いの能力ですね。そして、説明能力とビジョン提示。預言者ですね。
「聖書がずっと残ってきた理由は、苦難に対する忍耐力と信じる力、約束を守る力を伝えたいという普遍的な願いがあったからだと思います」(p.120、里中満智子)。なるほど!そう言えば、たしかに、彼女の「マンガ旧約聖書」はみごとにそれを伝えていました。
「イエスの指針の中心は、まさに『私を見ろ。救いはすでにここにある』ということなんです。私はいい加減なインチキ神父だけれども、そんな私を遣わしたのは神であって、その神が私の口で救いは来ていると宣言している。実際にはひどい現実ですよ。罪まみれでどうしようもない社会だけれども、『それでもここに救いはある』という宣言のすごさを知ってほしい」(p.156、晴佐久昌英)。ぼくもインチキ牧師ですが、晴佐久さんとの違いは、「それでもここに救いはある」と「宣言する」(説明するではなく・・・)ことに生きているかどうかだど思いました。彼の説教集、たしかに、「ここに救いが」という宣言の花束でした。
さいごに「宗教のあるべき『応答』とは」「学校の先生や職場の上司、家族や友人では提起できないかもしれない第三の視点や新しい「物差し」、価値観を示してみせることである」(p.196、編著者)
世の中からの離脱でもなく、迎合でもない、キリスト教の道がここにあると思います。二千年前にイエスが宣言し伝えようとしたことも、まさに「新しい視点」であり、それは、神と深く向かい合う中からでてきた「福音」(Good OldsではなくGood News)だったのです。