28 「イエスを源としつつ、イエスを商品にしない」

「福祉・介護におけるスピリチュアル・ケア」(深谷美枝、柴田実)
 
 まず、スピリチュアル・ケアとはどういうケアなのでしょうか。つぎの言葉がわかりやすかったです。

 「クライエントの不定愁訴やうつという症状は、客観的な精神医学的・心理学的次元での捉え方である。しかし、クライエントが生きる現実において起こっていることは、自分の主体性が破壊される恐ろしい事態なのである。われわれは、その辺りで生じるような痛みを、スピリチュアルペインと理解している」。(p.51)
 
 「自分の主体性が破壊される恐ろしい事態」とは、たとえば、このまま歩けなくなるのならリハビリなどの努力はしても意味がない、というような「意味の喪失」のことでもあります。それに深くかかわるペインをケアするのがスピリチュアル・ケアということなのでしょう。

 あるいは、こういう言葉もありました。

 「精神的・心理的問題に対するケアでは主に、精神的・心理的苦痛を、『今、ここで』という現在の症状や問題として扱おうとし・・・・スピリチュアルケアでは、クライエントが価値観を抱き続けているクライエントの過去・現在・未来に対するライフストーリーをケアの場所として捉えている」。(p.49)

さて、深谷先生、柴田先生は、信仰を持つ人がこのようなケアにかかわることに積極的な意味を見いだしておられます。

 たとえば、「クライエントはワーカー自身と同じような神から問いかけを受けている人間であり、その意味で対等平等で何も変わらないという人間観がある。『駄目な人』という世間的なラベリングに対抗し、何らかの理由で問いかけを受けきらない、背負いきれない、あるいは向き合えないでいるだけの人間という理解がある」と述べられています。

 しかし、これだけなら、信仰者だけが人間皆平等と考えるわけではない、という反応もあるでしょう。

 この書では、「神との関係の深まり」、「人との関係の深まり」、「自分の癒し」という三項の循環が示されています。これにはまったく賛成です。

 「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マルコ12:29-31)。

 ここにも、神、自分、隣人との愛という三角形がありますね。

 援助者が用いるべき「援助者の自己理解・自己洞察シート」の記入例が掲載されていますが、そこには、筆者自身が、苦しみを吐露するあるクライエントの前にいる自分をどのように感じるかが述べられ、その理由として「筆者の信仰するキリスト教信仰において、イエス・キリストという神により、何もできない無力な自分が寄り添われて救われたという体験による。神の自分に対する愛情の眼差しが、現在の援助職のモチベーションとなっている」(p.56)と記されています。これは信仰者がスピリチュアル・ケアをする重要な意味の一つだと思いました。

 スピリチュアル・ケアには「自分の意味のつかない苦しみを、援助者が時間をかけて共に付き添い同伴」(p.61)するという大切な面がありますが、それは、まさに、イエスに寄り添われているという信仰者の経験を根っことしてなされることでありましょう。

 また、クライエントの「本当に神さまがいるなら、なんで戦争や不平等なんかが起こらなければならないんですかね。そして、なんで私がこんな病気にならなければならないんだ」という言葉に対し、カウンセラーが「たしかに、私も同じように感じています。キリスト教徒ですが、思いがけない悲劇については神に問いたくなりますから」と答える事例などは、スピリチュアル・ケアが信仰の押し売りでないことをしっかりと示していると思いました。

 さらに、自分のある行為について自分を責めている人に対して向けた「私はキリスト教の牧師だけれど、あなたに信仰の無理強いをしないから、あなたのなかにイメージできる神様に向かってで構わないから、祈ってみませんか。神様は赦して下さると思いますよ」(p.134)という言葉も、著者たちが、スピリチュアル・ケアにおいて、福音を資源としながらも、売ったり、押し付けたりしていないことを物語っているように思いました。