26 「相手の苦しさ、無力感を、自分とはちがうその人の感じ方として受け取る」

「カウンセラーの〈こころ〉」 佐治守夫

 ぼくは人の話や気持ちを理解することが苦手です。話を聞いていても、自然には理解できず、理解するには集中が必要ですが、その集中力もすぐ途切れて、何の話かわからなくなり、筋や訴えをわかろうとする誠実さを投げ出し、ただ、その話しか段落を終わるまで、聞き流すことがしばしばです。あるいは、一所懸命に聞いても、その人の気持ちだけでなく、客観的なことがらさえ理解できないこともよくあります。

 この人はこういう人なのだという、単純な短文を即席に作って、相手をぼくの頭の枠組みの中に収めてしまおうとしてしまいます。相手をぼくの理解の枠組みの中に取り込んでしまおうとするのです。

 カウンセラーでもないぼくがカウンセリング本をときおり読みたがるのは、こういう自分をなんとかし、人さまのお話をなるべくそのままに近い形でわかるようになりたい、他者を自己に飲み込まず、他者のままで出会いたいと思うからです。

 また、ぼくが苦しいとき人さまからしっかりと耳を傾けていただいてひじょうに慰められるというようなことがときおりあるので、ぼくに話をしてくれる人にも少しでも似たようなことが起こってくれないか、とも思うからです。病気や家族や仕事などで苦しんでいる人がまわりにいますし、そういう悩みをもって教会を訪ねてくる人もいます。そういう人々にアドバイスをしたり、ぼくの経験談や考え方を聞かせたりしてうんざりさせないようにしたいという思いで、この手の本を時々読むのです。

 下心もあります。話を聴いてくれる良い人だと思われたい、慕われたいと。それから、ぼく自身が人に話を聴いてもらいたいという思いが強くあって、この手の本を読むと、筆者に傾聴マインドがあるからか、あるいは、傾聴という概念に触れるだけで心地よいからか、誰かに耳を傾けてもらったときに近いような晴々した思いになる時もあります。つまり、話を聴いてもらいたい、という欲求の周辺部が満たされることがあるのです。

 「私の中に子どもであり、大人であり、セラピストであり、それから親であり、先生であり、そういうものが共存していなければならない」(p.6)。「いつも自分をどこかに固定し、そこで実体化してまうのではなくて、それを離れて自分をさすらい人にし、周辺人にし、境界人にする必要がある」(同)。

 「子どもがいろんな大変な目に出会ったり、すばらしい宝物に出会ったり・・・すごく怖い魔女の家があったりする。そういうものを探しに行くというか、一緒に探すというか、あるいはそこにわけいって、今までにない新しい体験をする」(p.17)。

 ぼくなら、親とか牧師とか教師とか、そういうところに自分を固定してしまいがちだし、その方が楽なのですが、もしかしたら、子どもや信徒や生徒の部分も出てきた方がよいのかも知れません。そうすることで、子どもたちや信徒たちや生徒たちが経験している世界を少しでも経験でき、この人びとの世界を、ぼくが勝手に思い描いているのとは違う形でイメージできるかも知れません。あるいは、ぼくの子どもの部分で子どもたちとかかわることで、ぼくとはちがう子どもたちの世界についてのイメージが広がり、同時に、共有する世界も広がるのかもしれません。

「治療者として、そこで戦わなければならないのは相手とじゃなくて自分となんです。・・・相手から自分の内部に感じとった不気味な不安感、得体の知れない相手と会っていることからくる自分自身の不安感というものと闘わざるをえない」(p.37)。

 子どもをしかりながら、じつは、子どもの今やこれからについてぼくが不安に陥っているということはよくあります。子どもに「○○するのはやめなさい」と言いながら、じつは、子どものことをひきがねに自分の中にわきあがる不安を外在化させていることはよくあります。

 「闘う」というか、「取り組む」べき相手は、目の前にいる人ではなく、目の奥にいる自分自身なのですね。佐治さんもカウンセラー自身が自分の感情に対して偽りがないことの重要性を言っていますので、「闘う」とは「打ちのめして制覇する」ということではないようです。「ゲド戦記 第一巻 影との戦い」のエンディングを思い出されます。

 「クライエントにとって、あんまり利口すぎるカウンセラーというのはたまらないんだろう、と思うわけです。自分はまったく五里霧中の状態で、どこにつれていかれるのかわからないのに、なんか相手がわかっちゃってるような印象をもし抱くとしたら、こわがって、一歩も先に動けないんじゃないか、と思うのです。こちらもほんとにわかんなくて、ときにはほんとに馬鹿であって、ほんとにクライエントと一緒になってさまよう。たとえば、いばら姫は100年の眠りを眠るわけですが、クライエントはときには100年の眠りにつかなければならないとしたら、そこで一緒になって100年眠るのを待つ、それだけの愚かさを、私は自分に欲しいなあと思います」(p.73)。

 「それはなにか、それをはっきりこうだといえない、でもなにかあることはたしかだ。クライエントの方も、それがなにかということはわからない、それがどっかで『にじみ』あって一緒になる」(p.76)。

 「しかしこの人にとってのこの二〇年は単に無用なんかじゃない、無益ではなかったんだ、ということをカウンセラーはなんとかにじませようとしているのです。発掘するなんていうとあんまりかっこがよすぎる。ただ、ボワーっと本人にそんなものを感じてほしい」(同)。

 ぼくは、子どもには、ボワーっとしたものを感じさせるのではなく、はっきりしたことを伝えようとしてしまいますし、苦しんでいる方のお話しを聴く時も、子どもに対するほどではなくても、ともに五里霧中にとどまることはできず、はっきりした言葉を口に出したがってしまいます。ボワーとか「にじみ」とかではなくてクリアにしたがってしまうのです。けれども、クリアにするということは、いろいろなことを切り捨てて、相手の未知な部分は無視して(じつは未知の部分の方がはるかに広大なのですが・・・)、ぼくの描きやすいように単純化する、ようするに、これもやはり相手をぼくの弁当箱に入れられるような形に変えてしまうわけです。弁当箱に四角く収めて蓋をするのではなく、はっきりしない姿のまま、広いお皿の上においておきたいものです。

 「植物は教えることができないのです」「環境が調えば、その植物は育つわけです」(p.169)。「稲の苗を、お父さんが一生懸命に引っ張って、少しでも早く大きくなるようにとしますと、次の朝みんな枯れてしまったという。・・・・私たちがやれることは、助長するのではない、頑張れっと、周りから激励することでもない、本当にその人の自分というものが育っていくのを、どうやって助けられるかということだと思います」(p.179)。

 これは耳が痛い話ですし、恐ろしい話です。子どもや生徒やぼくに苦しみを話そうとしてくれた人々をどれだけ涸れさせてしまったことでしょうか。でも、ぎゃくに、教えなくてもよい、環境が調えば育つ、というのはありがたいことです。その人の根がある土の力を信頼したいと思います。

 (最初のカウンセリングでたくさん喋った人の)「一〇人に八人ぐらいは来なくなる」「むこうが準備できていないところまで、こちらが踏み込んでいる」(p.180)

「むこうが語っているのに応じて痛さに十分付き合うよりは、その話に巻き込まれてしまっていたのかなあ」(p.181)。

 ちょっと相談があります、ということで教会に来られた方の話を、一時間や二時間もお聴きすることがあります。そして、あれだけお話ししてくださったのだから、ぼくの聴き方が傾聴に徹していたからだな、とか思ってしまったことがあります。しかし、二度とお越しにならないのです。その理由の一端がわかったような気がしました。じっと話を聴きながら、「お話を聴いていますよ、興味をもっていますよ」というメッセージのつもりで、「そうですか。それからどうなりましたか」とか「そうですか。その人はどうでしたか」というような短い言葉を挟むと、また、そこから十分も二十分も話してくれる人がいますが、それは「むこうが準備ができていないところまで、こちらが踏み込んでい」たり、「話に巻き込まれてしまっていた」のであって、「痛さに十分付き合う」ことができていなかったのだと思いました。

 さいごに、「相手の苦しさ、無力感を、自分とはちがうその人の感じ方として受け取る」(p.271)という言葉が印象に残りました。

 わたしたちは相手の苦しみや疲れを聞くと、自分もそんなことがあったと口にしたり、あるいは、口にしなくてもそう思って、思い入れを強くしたりしますが、それもまた、相手を自分の中に取り込むことであり、共感とは、この人もわたしと同じように苦しんでいるのだな、と思うことではなく、この人は(わたしとはまた違う)こういう仕方で苦しんでいるのだなあ、と想像することだと思いました。その想像のためには、自分の思い込み、取り込みをできるだけ斥け、相手の話にできるだけ耳を傾けることが必要でしょう。