自宅の一室から始まり、やがて、千葉県を代表するようになったある塾とある家族、ある男女の五十年。昭和で言えば三十年代半ばから、平成で言えば二十年代半ばまで。塾も変われば、家族も変わる、男女も変わり続ける、たった一つのことさえ変えなければ。
そう言えば、ぼくんちも塾でした。昭和四十年代、親父は本業だけでは五人の子どもを育てられないと思ったのか、個人塾を職住隣接の家屋で始め、当初は数十人を集めていました。おかげで、ぼくらは皆、大学に行くことができました。大手でなくても、まだ子どもたちが集まった時代です。
その十年後、ぼくの大学時代、塾を開こうと新聞にチラシを入れてみたものの、生徒はたったひとり。もはや、個人塾の時代は終わっていたのでしょう。ぼくは、家庭教師を何軒か掛け持ちしながら、大学生活をやりくりしました。
小説の塾家族たちが、ぼくや親父と大きく違うのは、子育て費用や生活費をどうにかしたいということ以前に、子どもたちに教える、いや、子どもたちを成長させる、成長する子どもたちをサポートすることに並々ならぬ情熱と労力をつぎ込み、並々ならぬ苦悩と喜びを味わっている点です。
反省させられました。けれども、巻末のあたりの物語には、希望を与えられました。時代が近いせいもあるかも知れませんが。
貧困家庭の子どもたちに無料で勉強をサポートする。じつは、これは、昭和三十年代からの伏線でもあったのですが。ぼくも、ちょうど、似たようなことを考えていました。無料ではないけれども、大手塾にあわないような子どもたちのための補習塾、家計が厳しければ、授業料を安くする、そんな塾を開きたいと思っていたところでした。これには、自分の家計の足しに、ということだけでなく、社会的な意味があるかなと。
社会的な意味を考えるのであれば、ポリシーも必要でしょう。軍人として戦死した、塾創業女性の父親は「誰の言葉にも惑わされずに、自分の頭で考えつづけるんだ」(p.176)という言葉を残しました。
これが、女性が始めた塾五十年の通奏低音になるのです。「口をはさみすぎないこと・・・子どもはその場じゃわかったような気になるかもしれないが、それでは基礎学力が」(p.402)。「急ぐことはない・・・まずは神経を鎮め、考える力のすべてを目の前の一問へそそぐこと。その一歩さえ踏みだすことができれば、多くの子はおのずから歩みだす」(p.6)。「教える側が先まわりをしてあれこれ世話を焼きすぎなければ、おのずと頭を使いだす」(p.50)。
けれども、自分の頭で考えつづけることは、勉強のためだけではなく、生きることそのもののためではないでしょうか。考えつづけなければ、「神の国ではなくなって、軍事教育も民主主義教育へとってかわられた」(p.15)と思ったことが「甘い見つもり」(同)だったこともわからないからです。考えつづけなければならないのは、昭和と平成の物語の子どもたちだけでなく、平成を生きるおとなたちもです。
「親がすべきは一つよ。人生は生きる価値があるってことを、自分の人生をもって教えるだけ」(p.153)。自分が満月になってしまったら、もう考えるつづけることもなく、誰かの言葉に惑わされてしまうだけです。みかづきのように、つねに満ち足りず、考えつづけていく、それこそが生きる価値ではないでしょうか。