21 「この病気の人は人格発展を遂げる」


統合失調症とのつきあい方 闘わないことのすすめ」 蟻塚亮二

統合失調症患者さんは世の中の百人に一人くらいだと言われることがあります。わたしの経験を振り返って、キリスト教会では十人に一人くらいのような気がしています。やはり、病気にかかわる諸々のことがらも含めて、とても苦しいことがあり、なにか救いを求めて教会の門をくぐられるのだと思います。

わたしが出会った人は皆、通院して薬を飲み、社会生活をしている人たちです。他の牧師さんたちもそういう人びととの出会いがあるようです。そんな中で、苦しむ牧師もいます。ある人は牧師に一日に何通もメールを出します。それがほぼ365日、何年もつづきます。牧師は孤独なその人の励みになればと返事を出しますが、全部には大変で一日一通にとどめたいと思います。けれども、その人は最初のメールの一時間後に「先ほどのメールの返事はまだか、『着いた』という一言くらい書けるはずだ」と、またメールを送ってきます。それに応えないでいると、あの牧師はけしからん、というハガキを他の教会員に出したりします。こういうことが何年も止まず、むしろ、年々エスカレートしてくると、あるいは、受ける側の耐性が下がってくると、「ああ、やはり、これは人格荒廃に至る病なのだな」と思わざるを得なくなります。

統合失調症について「進行性の経過を取って末期に人格荒廃に至る」と言ったのはクレペリンという人だそうですが、蟻塚さんはこれは「正しくない。むしろ、年を重ねるごとに人格的な発展を遂げる」(p.34)と述べておられます。「後遺症は残るが環境からのサポートによって多くは治るか、回復する」(同)、「時間の経過や適切な環境によって人格や社会性は発展し、『治る』病気である」(p.32)、「統合失調症は進行することはなく、一定の期間の後に病状の休止または消褪を迎える。人格は荒廃しないで時間とともに発展する」(p.160)とも。たとえば、長い病歴を持つ71歳のMさんの「燃える心と、たしかな現実との共存」(p.141)を示す詩が紹介されています。Mさんの属するグループの面々は「年齢を経るごとに、文字を書きはじめ、ファックスをおぼえ、友人関係をたしかなものにし、『人格発展』を遂げられてきた」(同)ということです。

これを読んで、わたしは人の見方を変えたいと思いました。これからもずっと変わらなかったり、ひどくなったりしていくのではなく、この人びとは、いま人格発展を遂げつつある人びとであると。

わたしの中にこれまでまったくなかったこの枠組みを通せば、何人かの人びとをこれまでとは違って見ることができ、そこから、おたがいに新しい何かが「発展」するかも知れないではありませんか。

蟻塚さんは、昔やれたことができず、努力してもダメでつらい思いをしている高齢者が「『かつての幸せで楽しい家庭の団欒』の世界に帰りたくなる。で、昔の幸福だった家庭に向かって歩き出す。すると世間の人はそれを『認知症老人の徘徊』と呼ぶ」(p.199)とも書いておられます。ああ、あれは光に導かれて歩いていたのですね! このあたらしい眼鏡にも感謝します。

まだまだあります。「障害者というものはこの世にはいない。障害を部分的にもった『正常な人』しかこの世にはいない」(p.160)。この言葉、応用が効きそうです。たとえば「病人というものはいない。病気を部分的にもった『健康な人』しかこの世にはいない」というのはどうでしょうか。欧米では1980年代からPeople with Disability と言っているそうです。Disabled Peopleではないということなのでしょうか。

「障害という『物』と、障害をもつ『人』との関係を別物として切り離して理解している」(p.164)。つまり、この人、この人格が障害なのではなく、この人の一部に障害という『物』が付随しているということであり、たとえば、今わたしの背中の皮は日焼けでむけていますが、わたしの人格の背中の皮がむけているのではなく、わたしは「背中の皮がむけている」という状況を鞄のようにぶらさげているのだ、というようなことかと思います。

さいごに、あたらしくいただいた見方の例をもう一つだけ挙げておきます。それは「障害の受容」についてであり、身体障害の場合との相違点です。「身体障害は、もはや動かしがたい『過去の生涯』であるのに対して、精神障害は、何が待ち構えているか分からない『未来の生涯』。困難な未来を前もって受容せよというのは無理。精神障害は、『結果としての受容』であってもいい」(p.133)。

そして、ひじょうに大切なことだと思いますが、「『社会的障害』である精神障害こそは、自己受容よりも社会的受容、つまり周囲からの温かい受容を何よりも必要とする」と述べておられます。

他者に向かって「あなたは精神障害を受容しなさい」などと説教するのではなく、自分がその人を受容しようとする、それこそが受容、重要と思いました。

他者に荒廃の呪いをかけるのではなく、発展中の人格と見ること、これも受容の一助、あるいは、一面ではないでしょうか。