20 「神を判断するボクの言い訳」

「ふしぎなキリスト教 日本人の神様とGODは何が違うか?」 橋爪大三郎×大澤真幸

この本には「誤読ノート17」でもワンポイント触れましたが、あと三点挙げておきます。

「言葉はふつう、誰かが誰かに話すものなので、人間同士の関係のなかで相対化されてしまう。それに対して、預言者は、Godの言葉を伝えるので、その種の相対化と絶縁し、言葉の絶対的な性能を研ぎすますことができる。この伝統から、神学や哲学や科学やジャーナリズムが生まれたと思うのです」(p.115)と橋爪さんは言います。

政治や教育などの場で顕著なように、言葉は、上から下にあるいは下から上に、いずれにしろ、一方通行になりがちであることの発見と反省に基づいて、双方向の対話が重視されるようになった時代に、ぼくたちは育ったような気がします。

たとえば、姉妹兄弟のような親子、友達同士のような教師と生徒などのように。けれども、そこで、本当にゆたかな、互いが互いに聞きあい、学び合うような対話がなされているかどうかは、はたして疑問です。カラオケボックスではたしかに交互に歌うけれども、自分が歌っていない時は、人の歌を聞くのではなく、自分が次に歌う曲を選んでいるように、交互に言葉を発しても、相手の話す時は、それを聞きながらも、つぎに自分が口にする言葉に気持ちが行っているのではないでしょうか。

そういう関係のなかで語られる言葉は、対話形式であっても、聞かれることなく、その重みやその独自性が尊重されることなく、橋爪さんが言うように「人間同士の関係のなかで相対化されてしまう」のだと思います。

ぼくたちの昨今の会話がそのようなものである時、「その種の相対化と絶縁し、言葉の絶対的な性能を研ぎすます」、いや、語り手がこの言葉は絶対だなどと言いだすとやっかいですが、聴き手が相手の言葉のその瞬間瞬間の絶対性、相対的な一秒であるようで、じつはカイロス的な一秒に語られるその言葉の絶対性に、耳を研ぎすますことはひじょうに大事なように思いました。

相手を尊重する(はずの)対話(形式)において、じつは、いかに多くの言葉が相対物として消費されてしまっていることでしょうか。

二点目は、現代のキリスト者の多数派は「科学を尊重し、科学に矛盾しない限りで、聖書を正しいと考える」(p.122)と橋爪さんは言います。ぼくなどもその一人だと思います。そして、そういう多数派は、とくに日本では、福音派を馬鹿にしがちだけども、橋爪さんは、多数派と福音派の考え方は変わらない、福音派は「聖書を尊重し、聖書に矛盾しない限りで、科学の結論を正しいと考える」だけのことなのだと指摘します。

なるほど、と思いました。ラディカルっぽい人のなかに、多様性の尊重を唱えながらも、ラディカルっぽくないものには不寛容で、ファンダメンタルに対するフォビアを示す人がいますが、それこそ、ラディカル(徹底的、根源的)でないように思います。ホモフォビアとファンダメンタルフォビアは構造的に変わりません。

といいつつ、ボクのなかにもファンダメンタルフォビアがあり、それを克服するためのひとつの材料として、橋爪さんの指摘を心に留めておきたいと思います。

三点目は、大澤さんが、聖書の四つの福音書に相違があるなど「聖書がかなりあいまい」(p.315)であるから、「神が直接お創りになった自然のほうが、神の意図を知るということではよりいっそう優先権があるとも考えられる」と言っています。

これは、つまり、聖書を読んだり、信仰のあり方を考えたりする際に、自然を調べる方法=自然科学に、さらには、社会科学、人文科学=理性に訴えるということであり、ぼくなどもそういう立場ですが、ここには大きな問題があります。

自分の最大のよりどころであり、相対的な自分の前に絶対的な存在として立ってくださる神についての言葉である聖書を、自分の理性で判断しているという矛盾です。

絶対者の前で、他者の前で相対的であろうとしつつある自分のなかに、じつは、自分では抑えようがない巨大な自分、絶対である自分という判断装置がある、神を信じるなどと言いながら、やはり、自分が神になってしまっている、この矛盾の出口はまだ見つかっていませんが、せめて、矛盾があることを自覚し、乗り越えたいと求め続けようかなあということを、イクスキューズにしておきましょう。