22 「どんな的外れの仮説でも、定説の鸚鵡返しよりはよっぽど価値がある!」


「人が共に生きる条件 説教・奨励集」 並木浩一

「そこでヨブは、ヤハウェに応答して言った。まことに、私は小さい者です。あなたに何と返答できましょう、わたしはわが手を口に置くだけです。わたしは一度語りましたが、答えることはできません。二度語りましたが、これ以上は申せません。」(ヨブ記40:3-5、並木訳)。

これは、神の前での謙遜の言葉、あるいは、自分の圧倒的な小ささの告白でしょうか。そうでしょう。けれども、ヨブは神の無限の大きさの前でただ黙っていようと、自分を抑圧しているのでしょうか。

いや、並木さんはヨブは「解放」されたのだと述べられます。これは「世界と人生についての意味づけという重荷からの解放」(p.64)なのだというのです。「ヨブは、世界の悪について、世界の秘密について、納得のいくまで神に問い続け、解答を勝ち得なければならないと自分を追い込んだ苦しみから、解放されています」(同)。

わたしたちも真理を知ろうとし、生きている意味を知り納得しようとし、世界に満ちる様々な事柄についてわかろうとし、問題をほぐし解決法を見出そうとします。でも、なかなかそうはいきません。これだけしか知らない、これだけしかわかっていない、これもあれもすこしもわかっていない、ちっともできないと思うと、胸が苦しくなってきます。

しかし、ヨブは「世界の創造と維持、わたしの生を含む神の導きの計画、思し召しは、わたしの知るところではなく、神だけが知りたもうことを告白」(p.65)したと並木さんは言うのです。

わたしたちは神の領域を知り得ないだけでなく、人間の領域であっても、生涯のうちで知りえることはごく一部です。真理や答えを求めようとするプロセスにはたしかに大きな意味がありますが、目的に到達できなければダメだと思う必要ないでしょう。生きるとは、世界で一番高い山の頂上を目指すことではなく、広大な平野を縦横無尽に走る列車の今日は○○線で○○町と○○村の風景を見た、というようなことの繰り返しなのではないでしょうか。

無限が相手なら、一歩進もうと、千歩進もうと、そんなことは関係なく、ただ、今日はこんなものを見た、この何年間でこんなものを見た、そんなことでよいのではないでしょうか。世界中の駅をすべて通らなけばならないなどとは誰も思わないように、世界のすべて、世界の真理を知ってしまいたいという思いから解放されたいと思います。見たものだけ見れば、知ったものだけ知ればよいのです。永遠や真理は、永遠や真理そのものである神に任せてしまいましょう。

というようなことを、並木さんの言葉から、妄想したのですが、ヨブの言葉を「世界と人生についての意味づけという重荷からの解放」として解釈した並木さんの思考は新鮮です。

並木さんは学生などに「どんな的外れの仮説でも、定説の鸚鵡返しよりはよっぽど価値がある!」(p.11)と言っておられたそうです。この本には「的外れ」などとは思えない、けれども、「定説の鸚鵡返し」などではない、聖書の読み方がヨブ記以外についてもいくつも出てきます。

もう一例挙げますと、新共同訳では「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」(出エジプト記32:1)と、人びとがアロンに求めたことについて、並木さんは「神々」ではなく「神」と訳す方が良いと述べておられます。

これには驚きました。わたしはこの「造られる神々」については、古代ではバアルなどの他宗教の神々をも意味したことだろう、現代の私たちにとっては、お金、権力、人間関係、学知、健康、将来の保証など、神に代ってわたしたちの心の最大のよりどころになってしまうものとして理解すべきであろう、と考えていました。

ところが、人びとがアロンに求めたのは、ヤハウェが臨在するための「依代(よりしろ)」(p.171)なのだ、と並木さんは言います。それは、具体的には、神さま、金の子牛を作りますから、そこに降りて来てください、ということなのです。あるいは、人間が自分で馬小屋を作って、神さま、そこにイエスさまを降してください、というようなことにもなるでしょうか。

こうして「民は神ヤハウェが自分たちを見放したと勝手に思い込み、神を自分たちが思い描く世界の中に閉じ込めてしまった」(p.173)と並木さんは述べられます。偶像崇拝とは、さきに触れたように神以外のものを最大の支えにすることだけでなく、最大の支えである神を自分の思う枠組みの中に閉じ込めてしまうことでもあったのです。出エジプト記のこの箇所についてのこの読みは新鮮でした。

さらに「民は座って飲み食いし、立っては戯れた」(32:6)について、並木さんは「人間が手に入れた安心を実感するために霊的にうっとりすること」(p.173)と説明します。ここにはアルコールや性による高揚がうかがわれますが、「現代の上品な言葉に言いかえると、霊的な高揚と癒しの実感に浸った」が「それは人間の感覚を頼りにする偽の安心を作り出すだけ」(p.174)と言うのです。

キリストの受肉を思えば、「人間の感覚」は尊重されるべきですが、「人間の感覚」には高揚だけでなく抑うつもあり、癒しだけでなく傷つきもあります。受肉はどちらにもかかわることでしょう。「人間の感覚」の一部だけを取り出して、安心の材料にしてしまうのはこれも、たしかに、神を人間の思い描く枠の中に閉じ込めることになるかもしれません。

詩篇には喜びの詩もあれば嘆きの詩もあることを思い出しました。