5 相対的な表象であっても、そこに没入するまじめさ

「イエス 時代・生涯・思想」(J. ロロフ、教文館

 まもなく神がこの世界を治めてくださる、いや、それはもう始まっている、しかも、自分という人間の言葉や行動を通して。イエスはこう確信していたと、この書の著者ロロフは述べているのだと思います。

 けれども、それは、自分が誰かを支配したり、自分を正当化したりするための思い込みやとってつけた理屈ではなく、はんたいに、そのような支配や正当化をあばき、くつがえすためのものであったのだろうと私は考えます。

 私などは、20世紀末から21世紀初めの日本社会で身に付けた価値観からイエスを読み込もうとしていますが、ロロフは、そうではなく、1世紀のユダヤ社会の文脈に戻して、イエスを描こうとしています。その中で浮かび上がってくるのは、多様な価値観の受容したがり宗教的象徴をも相対化したがるポストモダンなまかじりの(私のような)オヤジ宗教職などではなく、むしろ、「神の支配」というイスラエルユダヤの宗教表象にまじめにどっぷりつかったイエスでした。

 ロロフによりますと、まだはっきりとはあらわれていないけれども、人間がではなく、神が支配する世界はもう始まっており、力強く進展していき、それが自分の人格においてあらわれている、とイエスは強く信じていました。(その背景には、人間による支配に苦しむ自分や人々を今すぐどうにかしたい、この状況は今すぐ変わってほしいくらいに重苦しいものだという緊要な意識がイエスにはあったのではないかと私は考えています。)
 
 もうじき神さまがこの世界を治めてくださる、いや、すでに始まっている。こう強く感じるイエスにとって、神の国の到来に備えて準備をすることよりも、すでに到来している神の国を経験することが重要であり、それゆえに、イエスは、準備のための洗礼は授けなかったとロロフは言います(p.103-104)。

 神の国がすでにきている、その実感や喜びをイエスはさまざまな形であらわします。たとえば、イエスは徴税人など、社会から斥けられた人々、弟子たち、信奉者たちと食事をしました。これはまさに、今ここに神さまがおられることを祝うものであり、またこのうれしい食事を通して、神さまが治めてくださるうれしい世界が来ていることを実感したのです(p.107)。

 イエスの例え話もそうです。イエスは植物の種など日常的な例をとおして、神の国という非日常的な世界が現実になりつつあるリアリティを伝えようとします(p.114)。悪霊を追い出して、病気を癒すことも、また、この世界はもはや悪霊ではなく、神さまが治めておられることを示す行為です(p.122)。十二弟子は世界の終末(=神の国の到来)時にイスラエル十二部族が回復するという民族的な表象に重なります(p.126)。弟子たちを家族と呼ぶことも神が父として治めていることを示します(p.132)。

 山上の説教において、イエスは民族の宗教的遺産である律法を徹底化させようとします。律法こそが神さまによる支配の秩序であり、神の到来にあたり、イエスは律法を深化させます。ロロフは「山上の説教のイエスは現行のトーラーを超越し、拡張している。彼自身がトーラー〔神の言葉〕を定めるのである」(p.142)、あるいは「山上の説教のエートスは神支配のエートスである」(p.143)というように、イエスによる律法の徹底化を、神の国がすでに来て、自分において働いているという意識と結び付けています。

神殿批判もまた神の支配に対するイエスの現実感のあらわれです。ロロフは「古い神殿とその祭儀の時が終わり、今始まろうとする神支配が新しい神関係を生じさせており、それは神の祭儀的崇拝の新しい秩序によって具体化される」(p.151)とイエスは考えているとしています。

 さいごに、いわゆる最後の晩餐における「わたしの血、契約の血」というイエスの言葉についても、ロロフはこれを神の支配についてのイエスの現実感と結び付け、「自らの死による契約更新の告知によってイエスは、彼の神支配の使信が彼の死後も存続することを可能にした」(p.155)と説明しています。

この本を読んで、今起こっている出来事、身を置いている場、語ったり聞いたりする言葉に、わたしももう少し深く没入しなければならないと思いました。イエスは、神の国、神さまによって治められる世界、という表象を相対化せずに、それを深化させ、身を浸したのかもしれないと、今回の読書で思いましたが、わたしは、どんな表象をも相対化したくなり、絶対化したくはありません。ただし、そこに深く身をおくことが求められていると思います。

聖書、礼拝、キリスト教会、聖餐式、洗礼、信仰というものが、絶対的な表象ではないことをわきまえ、ことに、それを絶対だと信じる自分は絶対だという自己崇拝に陥らないようにわきまえつつも、これらの宗教表象や象徴に身を浸していく真剣さ、まじめさをどのように身につけていくべきなのでしょうか。

わたしは日本語によって思考や表現を規定されています。日本語は絶対言語などではありませんが、そこに身を沈めています。日本語は意識的に選択したものではありませんが、意識的な選択もありうる(わたしはキリスト教徒の母父のもとに生まれたので、キリスト教を自ら選択したとは言えませんが、放棄することなく、それなりに、彼らのキリスト教を打ち直してきた、という意味では、意識的なものもあると思います・・・)キリスト教のさまざまな象徴に関しても、その相対性を知りつつも、深くコミットし、その象徴世界に現実感をもって生きていく道を模索しなければならないと思います。