「嵐の中の教会 ヒトラーと戦った教会の物語」(ブルーダー著、森平太訳、1989年、新教出版社)
讃美歌は何のために歌うのでしょうか。信仰的な雰囲気、昂揚感、あるいは、敬虔さに浸るためでしょうか。聖書の物語やメッセージをコンパクトにおさらいするためでしょうか。信じる者の気持ちや決意を表明するためでしょうか。
本著の舞台は、ヒトラー率いるナチスの支配と抑圧、弾圧が日に日に深まる、ある村と教会です。
しかし、牧師に導かれた人々は、どこまでもおぞましい闇の中を、讃美歌を歌いながら、歩き続けます。
これは、ドイツばかりでなく、同じ時代、じつは、日本のいくつかの教会も経験したことでした。そして、これからも、辿ることになるでしょう。辿らなければならないでしょう。
3年前、尊敬する先輩牧師は、牧する教会のためにイースター礼拝の用意をすっかり済ませたうえで、ご本人は、被災地の教会、被災地の人々のもとに赴きました。イースターの礼拝に主任牧師がいない! 被災地に行っている。衝撃的な出来事でした。しかし、それはまさにイエスの復活を証しするミッションでした。この本を読み、その牧師、送り出した教会、受け入れた教会のことを思いました。
これにさかのぼること何十年でしょうか。本著の主人公である牧師は言います。神さまは歴史を支配なさっておられる。しかし、「神様の唯一の啓示は、ただ救いに関わりのあるところ、人間と地上のものとこの世全体とが根底から救われるところ、すべてのものがまったく新たにされるところにだけあるということを知らなければ」(p.100)ならないと。
神さまが歴史に関わるとは、ひとつひとつの出来事を脚本のように書き記しているとか、おみくじや運命にように定められているとかいうことではなく、むしろ、神ならぬものが神を僭称して人々を苦しめる時、悪魔がこの世を支配する時、その世界を根底から救ってくださるということなのです。
では、ふたたび、讃美歌を歌うとはどういうことでしょうか。それは、神にのみ栄光を帰すことです。神ならぬものを根本の支えとはせず、悪魔の前に平伏さず、偶像に否と言い、神だけを神とするということです。この神と、この神への賛美こそが、わたしたちの救いなのです。だから、礼拝の最後の讃美歌は、主を賛美することに特化された頌栄なのです。
この神の救いのもとでは、小さい教会、弱い教会の存在意義があきらかになります。その教会が、たとえ、はなばなしく見える現象を起こさなくても、そこで歩み続けることが、他の教会の「共通の収穫」(p.105)となるのです。主以外になにも賛美するものも誇るものも持たないちっぽけな教会の歩みが、他の教会に勇気と希望をもたらすのです。主こそが賛美されるべきであることが証されるのです。