(79)「この世界はどこに行っても、神の家」

行ったことのない遠方に引っ越すことが不安でも、「同じ日本なのだから大丈夫」と思えば、気持ちが落ち着くこともあるでしょう。ほんとうは、それぞれの地に特徴があり、一緒くたにすることはできないにしても、同じアジアなのだから、同じ地球なのだから、さらには、同じ宇宙なのだから、と思って、安心しようとすることはできるでしょう。

たとえどんなところに行っても、お天道さまは見ていてくれる、お月さまは、お星さまは、と言い聞かせることも場合もあります。あるいは、天国のおばあちゃんは、おじいちゃんは、おふくろは、おやじは、ぼくがどこに行っても、見守っていてくれる、という思いを抱くこともあるでしょう。

言葉や食事、習慣、歴史、アイデンティティなど、とても大切ないくつものことが違っても、何かひとつ、根本的なことについて、これだけは変わらないと思えば、何かひとつ、変わらないものを見出すことができれば、ぼくたちは、そこに平安を見出すことができるのではないでしょうか。

聖書によりますと、イエスは12才のとき、旅の途中で親からはぐれます。親は心配してイエスを探し回ります。ようやく見つけたと思ったら、イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」などと言います。

親の心、子知らず。呑気と言うか、生意気と言うか。けれども、イエスは、12才にして、神が自分たち人間の父なら、この世界は父の家ではないか、ならば、世界のどこにいても、父の家の中にいるのには変わりがない、と感じていたのかも知れません。

30才くらいになって、イエスは「神の国は近づいた」と世の中にアナウンスし始めます。この世界は神が創った世界だ、この世界は神のものだ、神が治め、神が見守り、神がいつも一緒にいてくれる世界なのだ、神は目には見えないけれども、そのことに気がつこう、そのことを破れたように見える世界を生きるための根本の支えにしよう、とイエスは呼びかけたのではないでしょうか。

エスの中心にあるこの世界観は、少年のころ、すでに育ちつつあったのかも知れません。