43「相対にして肯定されてある人間存在」

旧約聖書新約聖書―――「聖書」とはなにか」(上村静)

 大きなスパンで物事を考えるとはこういうことか、と教えられました。創世記から黙示録までが、たんなる緒論的羅列ではなく、一つの視点から、論理的かつ文献的な裏付けをもって、批判的に(非難ではなく)論じられています。最後の381頁をめくった時は、長編小説を読み終えたような、壮大なスケールの映画を見終えた時のような、一つの世界を鳥瞰したような充実感がありました。

 上村さんは、聖書の言葉を神さまの言葉だから間違いないと無批判に受け入れるのではなく、それは人間の言葉であり、たとえすばらしい洞察を持っていても、倒錯も伴うものであることをていねいに説き明かしていきます。

 では、これによって、上村さんが聖書のメッセージをすべて否定しているかというと、そうではなく、たとえば、キリストの贖罪死について、「人が自らの罪の自覚と、それにもかかわらずその赦しを与えられているということの―――とはすなわち、相対にして肯定されている自己という洞察の―――ひとつの(唯一のではない)表象としてそれは有意義な象徴ではある」(p.112)としています。

 これ以外にも、「神による天地創造とは、神が万物の支配者なのだということであるが、それは人間による人間支配は認められないということである」(p.68)、「自我はその関係性の中から自分だけを切り取って認識する。それゆえ関係性を見失い、他者の上位に立とうとする。だが、それは「死」んでいる状態なのである。〈生きる〉とは、〈いのち〉とは、関係の中で生かされて在るものなのだ」(p.74)、「(神は)悪い思いを持つ人間をその「悪」のゆえに全否定するのではなく、むしろそうした人間をそのままで生かすことをよしとする」(p.76)というような洞察を聖書の中に読みとっています。

 問題は、このような有意義な洞察を、旧約、新約、キリスト教の時代の人間が倒錯させてしまったことなのです。そして、その倒錯が聖書自体の中にも見られるし、倒錯してしまったものを「聖書」として絶対化している人間も倒錯していることを著者は指摘しています。

 上村さんは、また、「義なる神」「義人」というように表現される「正しさ」にも人間のエゴイズムが含まれていることを繰り返し指摘しています。イエスの「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)という言葉も、そのようなエゴイズムへの批判として読まれているのでしょう。

 だからといって、上村さんは、倫理などどうでもよいとしているのではありません。「〈いのち〉への畏敬」(p.108)こそが倫理の根拠だと述べておられます。

 本書のあとがきは「公権力への満腔の憤怒をもって 冬を前に仮設住宅へと追いやられた孤独を・・・・」という言葉で結ばれています。

 このように見てきますと、上村さんが聖書から受け取る優れた洞察や、〈いのち〉への畏敬から抱く倫理観は、わたしたちのそれと通じるところも多いように思います。上村さんが聖書の倒錯を検証し批判的に読んで得たものを、わたしたちは、聖書の問題点を踏まえながらも、自分の中にはない何かとても本質的なメッセージをなんとかすくいとろうという姿勢によって受け取ることも可能だと思いました。