89 「想像力こそが死者と生者を結ぶ電波、いや・・・」

「想像ラジオ」(いとうせいこう河出書房新社、2013年)
 
 つぎに被災地に行く時は、ボランティア・ワークだけでなく、死者の前で手を合わせ、ゆっくり祈りたいと思った。けれども、それは、この世をうろついてほしくない、化けて出てほしくない、ということではない。

聴きたいのだ。大地と建物が激しく揺れたとき、津波警報が出たとき、逃げるとき、襲われたとき、のみこまれたとき、流されたとき、しずむとき。

想像し切れるものではない。いや想像などほとんどできない。それでも、想像したい、想像しなければならない。いや、耳を傾け、声を聴かなくてはならない。

 「想像ラジオ」の想像とは、自分の勝手な思い込みではない。それは、聞こえてくるもの。つまり、そこには自分とは違う他者がいて、その他者が発しているもの。

 沖縄に「ちむぐるさん」という言葉があると聞く。「胆苦さん」と書くのだろうか。人の苦しみを我が苦しみとして受けることを指すと言う。聖書が使うギリシア語に、直訳すれば「内臓する」とでもすべき動詞がある。痛む人を見て、断腸の思いになることと言われる。

 「想像ラジオ」は、生きている者が死者に向ける「想像力」(いや、これは、巻末に近いところで、別の語に言い換えられる・・・)を読者に求めていると読めるのだが、それだけでなく、死んだ者が生者を想う心、さらには、死者同士、また、生者同士の声の交換、いや、受信しあうことが物語られている。

 示唆的な文言、いや、著者がこの二年間、いや、おそらくそれ以前から抱き続けてきた問題意識が、あちこちに顔を出している。

 「事態に関係のない者が想像を止めてしまうの本当にいいことなのか」。当事者でない者が、何かを思ったり、考えたり、話したり、書いたりすることは、本当に冒涜なのか。

 「亡くなった人が無言であの世に行ったと思うなよ」

 亡くなった人の声を聴くなどというのはどうしようもない思い上がりではないか。本当の恐ろしさ、悲しさなどわかるはずがない。

 いや、聴こえないのは、頭が固いからではないか。想像力を捨てているからではないか。

 相手の気持ちなどとうてい理解できないという罪責感が、耳をふさいでいるのではないか。

 「あなたは感受性だけ強くて、想像力が足りない人なのかな?」

 これらの言葉に、著者が、他者の声を聴くという課題に、苦しみながら、なお真剣に取り組んできた痕跡が感じられる。

 他者の声はどうしたら聴けるのか。当事者でない者は、たしかに、直接には聞こえない。しかし、大震災の当事者でない者も、別のところでは親しい者の死の当事者であり、死者と語る経験がないわけではない。その、自分に身近な死者は、自分から遠い存在と思われる東北の死者たちと、今同じところにいる。大津波の当事者でない者も、自分の親しい死者の声を聴くことを通して、東北の死者からのラジオを聴く可能性が開かれる。

著者は、さらに、大震災後の日本社会に、いや、ぼくに、問いかける。意義深い提起をする。

 「亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」

 「一緒に未来を作る。死者を抱きしめるどころか、死者と生者が抱きしめあっていくんだ。」

 ここにあるのは、電波を送りっぱなしにするのではなく、双方向性のラジオだ。

 この電波は、はたして想像力なのか。それとも・・・ぜひお読みください。