3 信徒が織りなすキリスト教の歴史

論文 《「一国伝道史」から「キリスト教交流史」へ ――「日本」キリスト教史の対象と空間・再考――》(一色哲、「日本基督教学会第58回学術大会発表原稿」、2010年9月、立教大学) 

※〈 〉は「誤読ノート」の筆者がつけたもの。

 プロテスタントキリスト教は日本にどのように伝わったのでしょうか。一昨年は、日本にプロテスタントが伝わって150年、ということになっています。はたしてそうでしょうか。ベッテルハイムという宣教師が163年前に沖縄に来ていたということもありますが、その他の観点からも、”プロテスタント日本宣教150年” には疑問符がつけられます。

 1859年に横浜や長崎に宣教師がやってきて、そこを起点(中央)にして、各地方にキリスト教が一方通行で伝えられていく:一色さんはキリスト教伝道についてのこのような見方を批判しています。宣教師やキリスト教指導者は〈伝道する者〉、信徒やそうなることを期待される人々は〈伝道される者〉と峻別・固定化し、(宣教師や指導者の認識に寄れば)〈開かれた〉中央から〈開かれていない〉地方の人々にキリスト教を伝えて、その人々を近代化し、文明化する、このような歴史の見方は、キリスト教による文明化=救済という短絡思考を促す恐れがあることを指摘しています。

 つまり、密接にかかわりあうふたつのことが問題なのです。ある地方である人々がキリスト教信仰を自らの中に育むことは、中央からただ一度、ただ一人の伝道する者がやってきて、教え、伝道される者はそれをそのまま学んだというようなことではないのです。つまり、ひとつは、キリスト教が知的・文化的に優位の者から劣位の者へ、そのまま、一方的に伝わったとする見解を一色さんは乗り越えようとしているように思います。

 もうひとつは、地方に〈伝道する者〉は一人きりでもなければ、地方への到来は一度きりでもない点です。ある地域社会や地域間のキリスト教の歴史は、最初に伝えられたキリスト教信仰の内容や形式がその後絶対的な影響力を誇ったわけではなく、その後もさまざまな影響を受けながら、変化し、複合的に現状ができあがっている、と一色さんは指摘します。

 一番目の点についてもう少し触れますと、一色さんは地域のキリスト教の歴史を信徒中心にして描き出すことを訴えます。信徒は宣教師や牧師に一方的に教えられただけではなく、彼らは、中央や〈伝道する者〉とは違う、彼ら独自の仕方でイエス像を描き、教義を理解しただろうというのです。

 たとえば、急速な近代化により崩壊する農山村で、信徒はみずから、かつて教えられた以上に熱心に霊的な救いを渇望し、激しくまた長時間祈り、宣教師や牧師を通してではなく、神に直接、救いと癒しを求めたことがうかがわれ、これこそが「地の果て」の「証人」(使徒言行録1:8)だと一色さんは指摘します。

 これまでほとんど顧みられなかったこのような歴史を検証し、米軍占領下の沖縄などの圧倒的な不正義や不条理のなかで、伝えられたそのままの信仰ではなく、苦悩や叫びを通して育ってきた信仰者の歴史を明らかにすることで、わたしたちが今ここに生きる人々の現状や思いに共感しながら伝道する新たな道を見出せないかと一色さんは言います。

 二番目の点についてさらに触れれば、たとえば、ひとつの地域にもいくつかの教派や教団の教会があり、信徒はいずれかひとつに所属するにしても、その枠をこえた信仰的な交わりをもっていることが指摘されています。そこには、相互の影響があり、ある教会の信徒の信仰を形成する要素はその教会からのものだけではないことは容易に推測されます。また、上の段落で触れたように、信徒は外から示されたものを自分たち固有の仕方で育て受け入れていきますから、最初に伝えられたキリスト教信仰の内容や形式だけが排他的な影響力を持っているのではないことがわかります。自らの経験とそれをとおして信仰を再考することも、その後のさまざまな影響のひとつなのではないでしょうか。

 一色さんの論文を読み、自分が最初に触れたキリスト教信仰のあり方に執着せずに、自分の抱える諸問題についての苦悩や、他者の前への立ち方を巡る格闘から育つものに開かれたいと思いました。

 また、わたしが誰かにとっての最初のキリスト教との接点となる場合、その人がそこにしがみつかず、むしろ、わたしが知らないものがそこに育ち、それをその人とわかちあうような姿勢を養いたいと思いました。

 最後に、大震災の被災者に対して、わたしが希望や慰めを伝えるというよりも、そこで生まれる、わたしがかつて知らなかったであろう、福音のあたらしい横顔を見逃さないようにしたいと考えました。